東久邇稔彦氏(1888−1990) 財団法人国際平和協会生みの親。昭和20年8月26日、終戦首班となった東久邇宮は賀川豊彦を官邸に呼び、内閣参与に任命。日本再建の処方箋づくりっを依頼した。9月27日、官邸で有馬頼寧氏を座長とした懇談会が開かれ、賀川を理事長とする財団法人国際平和協会が誕生した。終戦後初の平和団体で東久邇宮は基金として5万円を寄付した。
 東久邇名誉会長死去 運動の発展に多大な貢献
 
世界連邦新聞 平成2年2月号
 戦後、最初の内閣を組織し敗戦処理に当たった元皇族の東久邇稔彦氏(世界連邦建設同盟名誉会長、同ニ代会長)が一月二十日午前八時五十四分、心不全のため、東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。百ニ歳だった。最晩年は白内障で視力をほとんど失い、一昨年ニ月、宮内庁病院に入院、その後、日赤医療センターに移っていた。葬儀.告別式は二十六日午前十時から文京区大塚の豊島岡墓地でとり行われた。
 明治二十年十二月三日、久邇宮朝彦親王の第九子として生まれ、陸軍士官学校を経て大正三年陸軍大学を卒業。この間、明治三十九年、東久邇宮家を創設。大正四年に明治天皇の弟九皇女、聡子さんと結婚した。大正九年からパリの陸軍大学、政治法律学校に留学。この間、画家のモネや政治家のクレマンソ−と親交を深めた。
 同十五年帰国後、軍事参議官を経て、昭和十三年には弟ニ軍司令官として日中戦争に出征。十四年に陸軍大将。十六年十二月、太平洋戦争ぼっ発とともに防衛総指令官に就任した。戦時中にも軍国主義に批判的で、日米開戦を避けるよう東条首相に談判したこともあった。終戦直後の同二十年八月十七日、初の「宮さま内閣」を組閣。軍の武装解除。復員、九月ニ日のミズーリ艦上の降服調印、進駐軍の受け入れなど当面の戦後処理をし、十月九日弊原内閣にバトンタッチした。二十二年十月、他の皇族とともに皇籍を離脱した。
 昭和三十年六月の世界連邦建設同盟臨時総会で、尾崎行雄総裁のあとを受けて弟ニ代会長に就任、運動の拡大、普及のため尽力した。特に全国で盛り上がった世界連邦平和都市宣言運動に力を注いだ。昭和三十七年、白内障のため会長を湯川スミ夫人に譲り、名誉会長に就任し、終生務めた。著書に「私の記録」「やんちゃ孤独」「一皇族の戦争日記」などがある。
 
 東久邇さんを偲ぶ 同盟顧問 小塩 完次
 世界連邦新聞 平成2年2月号
 漫画家の近藤日出造氏の"やあ、"こんにちは"がひと役買っているといっても,必ずしも不正確ということはあるまい。元一兵卒の日出造氏が一管の絵筆をかまえて、元陸軍大将の東久邇氏にインタビユーし、それが、「週刊読売」に載った。それを読んだ世界連邦運動の同志のなかに「宮さまにお出まし願おう」と言い出すものがあり、「まず顧問ということで、ご参加頂こう」との、いつもの賀川(豊彦氏、当時の副会長)方式で、世界連邦建設同盟の顧問となって頂いたのが昭和三十五五月二十五日、参議院会館で開かれた理事会においてのことだった。「東久邇氏を顧問として同盟にお迎えしたい」との賀川提案が満場一致で可決された。
 こえて六月十八日、十九日に同盟の臨時総会が衆議院弟ニ議員会館で開かれ、新制定の規約にもとづいて、 正式に会長に東久邇稔彦、副会長に賀川豊彦、理事長に下中弥三郎氏を推し、理事全員の辞任に伴う新理事 の選考は、八月二十日、最終決定となって陣容一新した。同総会では「サンフランシスコにおける国連創立十周年記念総会に対する決議」を採択し(1)世界軍備撤廃と原子力兵器の禁止(2)国連未加盟国の全的加 盟(3)人民代表会議の創設による国連の強化を主張した。またこの年十一月に"日本に続いて戦争を放棄せよ"と全世界に訴える「戦争放棄促進大会」を開催することを決めた。
 そもそも,賀川副会長の東久邇氏くどき落としの論法は、再軍備反対。憲法擁護のニシキの御旗をかざし、そ のためには世界連邦でなければならぬし、世界連邦のためには都市宣言を、都市宣言の拡大と普及のためには 終戦内閣首相の宮さまに立って頂かねばなりませぬーというにあった。ちなみに賀川氏は、大仏次郎氏、児玉譽士夫氏らとともに東久邇内閣の参与を務めた。内閣参与が設けられたのは官僚組織を経ずに直接民間の意向を首相に反映させるとともに首相の意思を直接民間に反映させるためであった。
 六月二十日、同盟総会が終わった翌日、賀川副会長は、片山哲、有田八郎、遠藤三郎、穂積七郎、小塩完次の各氏を引き具して高輪の東久邇邸に推参。まず片山氏が「憲法擁護国民会議へのお力ぞえを願いたい」との希望を述べたあと、「次にもう一つ.....」と賀川副会長が切り出した。「世界連邦建設同盟のほうですが"副会長になったつもりで"会長におなり願います」という珍妙な頼み方....。」というのは、今さら皇族を戴くことはどうかというような議論も若い人たちの間にはあるんで....」と、きわめてアケスケに昨日、一昨日の総会での空気を伝えながら「会長でなく、副会長ということでなら、ひとまず賛成する」という意見も含めて、賀川副会長に一任となった総会の経緯にもそうように、実直な加川はまっ正直にさらけ出した。
 東久邇氏は「それなんですよ。元皇族、元軍人というのですからね。ご迷惑になってはいけないと存じて、どこへも出ないでいたわけなんです。よく判りました。お役に立つことなら、なんでもいたしましょう」と快諾。
 さらに次のように語った。「戦争をしないということを国の憲法としたことは、人類史上の一大事件であって、日本国民の誇りであるばかりか、それは全人類の悲願であるのだから、この精神を世界化し、世界の憲法とすべきです。そのことを世界各国に勧めることは、最初に原爆を受けた日本人の特権であり、しなければならない責務だと思います。
 昭和三十二年十月「弟三回世界連邦アジア会議」が京都で挙行されたとき、東久邇会長は、遠出をしないというしきたりをあえて破って、これを親裁した。会期終って桃山御陸に奉告したときの会長の心裡には、防衛総司令官として、空襲による東京の悲惨な状況を眼のあたりにしたとき以来の「戦争の絶対にない永久平和の時代を実現しよう」との祈りが秘められていたことであろう。(「世界連邦運動われらの歩み」から再録) 
 戦後処理内閣首相 東久邇稔彦氏死去
 平成2年1月20日 日経新聞夕刊
 明治天皇の女婿、皇太后さまのおじで、敗戦直後の混乱期に首相を務めた元皇族の東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)氏が二十日午前八時五十四分、心不全のため、東京都渋谷区広尾の日赤医療センターで死去した。百二歳だった。葬儀・告別式は二十六日午前十時から文京区大塚五ノ三九ノ一の宮内庁豊島岡墓地で。喪主は稔彦氏の内孫で昭和天皇の外孫にあたる東久信彦(のぶひこ)氏。自宅は東京都目黒区青葉台一ノ四ノ三。
 明治二十年十二月三日、久邇宮朝彦(くにのみや・あさひこ)親王の九男として京都で生れた。農家に預けられたが、上京して学習院初等科を経て陸軍幼年学校に入学。明治天皇弟九皇女の聡子(としこ)内親王との結婚を含みに明治三十九年、皇族の一員として迎えられ「東久邇家」を創設した。陸軍士官学校、陸大卒業後の大正四年、聡子内親王と結婚したが、本人同士の意思を無視した結婚だったために反発。同九年夫と二人の子供を置いて単身フランスに渡り、画家のモネ、政治家のクレマンソ−と親交を深めた。
 大正天皇が亡くなられたのに伴って帰国。軍事参議官を経て、昭和十三年に第ニ軍司令官として出征、徐州作戦や漢口作戦に参加。十四年に陸軍大将に進級、太平洋戦争開戦直後の十六年十二月、防衛総司令官に就任した。戦時中も軍国主義に批判的で、日米開戦を避けるよう東条首相に談判したこともあった。終戦で鈴木内閣が総辞職したあとを受けて二十年八月十七日首相に就任した。敗戦の混乱を収拾するための、前例のない「宮さま内閣」だった。軍の武装解除、進駐軍の受け入れなど当面の戦後処理をし、十月九日幣原内閣にバトンタッチした。翌二十一年、連合国軍総司令部(GHQ)から公職追放され、二十二年十月、他の皇族とともに皇籍を離脱した。
 「私の記録」「やんちゃ孤独」「一皇族の戦争日記」のどの著書がある。故総子夫人との間に四人の子供がいる。長男の盛厚(もりひろ)氏は昭和天皇の長女照宮成子(てるのみや・しげこ)さんと結婚したが、成子さんは昭和三十六年七月に、盛厚氏も四十四年二月にそれぞれ死去した。盛厚氏と成子さんの間には五人の子があり、昭和天皇の外孫になる。さらにひ孫五人がいる。昭和六十三年二月、宮内庁病院に入院し、同五月から日赤医療センターに転院、療養を続けていた。
   首相が哀悼の談話
 海部首相は二十日午前、東久邇稔氏が死去したことについて、「東久邇氏は、大戦の終結というわが国にとって極めて困難な時期に首相としての重責を担われ、降状文書の調印、 戦時体制の平時化、進駐軍の受け入れなど種々の難事業に当たられた。
 この間、日本の再建を信じ、ご努力、苦労されたことは忘れることができない。謹んで哀悼の意を表する」との談話を発表した。
  自由奔放に生きる 故東久邇稔彦氏
 平成2年1月20日 日経新聞夕刊
 二十日朝亡くなった元皇族の東久邇稔彦さんは、終戦直後の「皇族内閣」の首相として知られるとともに、自由奔放な暮らしぶりで数々のエピソードを残した。
 視野の広い外国通、国際感覚の豊さは、大正時代のフランス留学で養われたといわれる。
 昭和二十年八月、首相に就任する際には「真っ平ご免です」といったん断ったものの、昭和天皇の要請もあって引き受けた。
 組閣直後「全国民が総ざんげすることが、わが国再建の弟一歩」と一億総ざんげ論を展開、さまざまな議論を呼んだ。山崎内相らの罷免問題などで、連合軍総司令部(GHQ)と対立。初の皇族内閣は約五十日間の短命に終わった。東久邇さんが最後まで反骨を通した結果だった。
 昭和二十二年、皇族の身分を離れた後は、いろいろな商売に関与したり、新宗教の教祖に担がれもした。だが、十二年前に夫人に先立たれたほか、長男、ニ男もすでに故人に。晩年は白内障のため目が不自由になり、ひっそり暮らしていた。
 叔父にあたる東久邇稔彦氏の死去に伴い、皇太后さまは二十日から二十六日まで、七日間喪に服される。
 皇族から「平民],乾物商・新興宗教開祖
  102歳、次々と話題・・・奔放に
 平成2年1月20日 朝日新聞
  皇室の殻に閉じこもらず奔放に生きた「やんちゃ皇族」の東久邇稔彦さんが二十日亡くなった。百二歳、歴代の皇族にも例をみない最長老だった。明治天皇の皇女と結婚しながら単身、日本を離れてフランスに渡たり、軍人皇族時代も「平和」を口にして軍ににらまれたりした。戦後、首相として敗戦処理にあたり、「一億総ざんげ」を説いた。その後、乾物商、新興宗教の開祖....と波瀾に満ちた生涯だった。
 最晩年は、子供や孫とは別に一人暮らし。お手伝いさんらが身のまわりの世話をするほかは訪れる人も少なく、視力もほとんど失い、終日、机に向かってラジオを聞く毎日。数年前から入院生活を続けていた。
 貧乏宮家だったため、生れてすぐ農家に預けられた。物に束縛されない生き方は子供のころからだった。「自分ながら、やんちゃ坊主で学習院の思い出といえば、いたずらをして叱られたことばかり」と自ら書くほどで、当時のいたずら仲間が、後の作家、里美驕だった。
 東久邇宮家を創設、皇族になってからも奔放ぶりは変わらず、陸軍大学に入学草々の明治四十四年、明治天皇との陪食を身体の不調を理由に断った。当時皇太子だった大正天皇に「陛下のご招待を断わるとは何事か」ととがめられて言い合いになり、「皇族を辞める」といきまいて、ひと騒動起したこともある。大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の病状が悪化したため、宮内省がフランスから帰国するように再三要請したが、従わなかった。天皇が亡くなられたあと、しぶしぶ帰国した。
 フランス留学時代は、パリの陸大、政治法律学校に通い、社会主義に関する講義も聴き、「資本論」も研究した。画家のモネのアトリエに通い、そこで知り合った老政治家クレマンソーと親交を深めた。ここでの自由な物の見方が後の生き方に大きな影響を与えたという。
 昭和二十年八月、昭和天皇に請われて首相に就任。降伏文書の調印など敗戦処理を担当した。組閣直後の記者会見で「全国民総ざんげすることがわが国再建の第一歩」と発言。「国民に戦争責任を転嫁するものだ」と批判を招いた。後日、「過去を忘れて新しく出発すべきだという気持ちからで、他意はなかった」と語っている。
 さらに、敗戦の責任をとって直宮家以外の皇族は全員皇籍を離脱すべきだ、と主張、他の皇族をあわてさせた。結局、昭和二十二年十月、十一宮家・五十一人が皇籍を離れた。
 新宿駅西口マーケットに乾物商、続いて宮家の家具、調度、書画を売りさばく古美術商。さらにはポンせんべい機販売と、次々に出したが、いずれも失敗。「平民」として生きる難しさを味わわされた。二十五年には新興宗教「ひがしくに教」の開祖となって世間をあっと驚かせたが、公職追放中の身にふさわしくない、というGHQの意向を受けてこれも挫折した。東京・高輪の約四万平方メートルの土地について「終戦直後、陛下から賜ったものだ」として国を相手に所有権確認の訴訟を起すなど、話題にはこと欠かなかった。
 晩年は白内障で視力をほとんど失い、五十三年には聡子夫人と死別した。その後、神奈川県在住の女性が稔彦さんの知らない間に妻として入籍していたことがわかり、ふたたび話題をまいたが、六十二年、最高裁で婚姻無効が確認された。

  皇太后さまが服喪  
  宮内庁は二十日、東久稔彦氏の死去に伴って、めいにあたる皇太后さまが同日から七日間の喪に服される、と発表した。
 また、天皇、皇后両陛下と皇太后さまは二十日午後、それぞれ東京都目黒区の東久邇氏の自宅に弔問使を送られる。
 皇太子さまら参列 東久稔彦氏葬儀 平成2年1月26日 朝日新聞
 二十日に百二歳で死去した、元皇族で戦後処理内閣の首相、皇太后さまのおじに当たる東久稔彦さんの葬儀・告別式が二十六日午前十時から、東京都文京区大塚五丁目の宮内庁豊島岡墓地内の参集所で行われた。神式で、在間完一郎・明治神宮権宮司が司祭長を務めた。
 葬儀には、皇太子さま、常陸宮妃華子さま、三笠宮ご夫妻ら皇族方のほか、海部首相、土屋参院議長、谷口最高栽長官らが参列。天皇陛下、皇后様、皇太后さまは、それぞれお使いを出された。
 皇太子さま参列 東久稔彦氏の葬儀 平成2年1月26日 日経新聞
 二十日に亡くなった元皇族、元首相の東久稔彦氏の葬儀が二十六日午前十時から東京都文京区大塚五丁目の豊島岡墓地でしめやかに行われ、皇太子さま、常陸宮妃華子さま、三笠宮ご夫妻ら皇族方のほか、海部首相、谷口最高裁判所長官らが参列した。
 式では、まず天皇陛下、皇后さま、皇太后さまの使者が霊前に拝礼、玉串(たまぐし)をささげて退出。喪主で故人の孫の東久邇信彦氏の拝礼に続き、皇太子さまら皇族方、親族や関係者が順に拝礼した。