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    メルマガ国際平和 No.50         2004年08月01日
                       http://www.jaip.org
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  私が傾倒した東洋のキリスト教徒「賀川豊彦」

                  ロバート・アームストロング

私は一九六二年にスコットランド・バプテスト派の牧師に叙任され、アルバで三
年、ペイズリーで一四年、教会の仕事をしていました。その後一九七九年にスコ
ットランド・バプテスト連合で出版部門を担当するようになり、一四年間それに
携わりました。またスコッティッシュ・バプテスト・カレッジで学籍係をしてい
たこともあります。現在は牧師の仕事を辞し、グラスゴーに住んでいます。

グラスゴーのウエストエンドにあるヒルヘッド・バプテスト教会のメンバーであ
る私は、その教会で中鉢富美子氏、戸田有信氏という二人の日本人と出会い、賀
川豊彦のことを話題にしました。私は賀川を尊敬し、説教の際にもよく話題にし
ていたのです。そして今回このご両人に国際平和協会理事の若松立行氏を紹介さ
れました。若松氏は、私が賀川をよく知っていることに非常に興味を示し、拙宅
に見えた折に、機関紙に賀川に関する話の寄稿を依頼されたのでした。

 
まず賀川との最初の出会いについて話します。いささか不思議な出会いでしたが、
その出会いによってたちまち私は賀川から多大な影響を受けるようになり、六〇
年たった今でもそれは続いています。一一歳の頃、鼠蹊部の腫れ物が膿瘍に悪化
する疑いがあって安静にしていた時のことでした。退屈しのぎに私は一冊の本を
手にしたのですが、この本が私を賀川という偉大なキリスト教徒に巡り合わせて
くれたのです。まずその本の背に縦書きされていた『KAGAWA』というタイ
トルに好奇心をそそられました。それはウイリアム・アキシリングという人が書
いた賀川の伝記でした。

両親がクリスチャンで、地域のバプテスト教会や日曜学校に欠かさず行っていた
私は、本の内容に夢中になり、この上なく印象的なキリスト者の虜になってしま
しました。というのも、少年心にも、彼がクリスチャンとしての理想を具現して
いるように思えたからなのです。

何よりも特記すべきことは、この出会いが第二次世界大戦終結間際の話だという
ことです。当時はイギリス人が日本人を敵だと思いこそすれ、すばらしいキリス
ト教徒として賞賛するなどということはありえないことでした。これは次のよう
な私の経験からもお分かりだと思います。牛乳配達をしていた時のこと、配達先
の家の小道のコンクリート板のデザインが日本の国旗に似ていたため、兄と私は
ここの住人は日本のスパイかもしれないと思い、彼らが何をたくらんでいるのか
あれこれ詮索したものでした。

しかし、クリスチャンである賀川の本質は私の心を強く打ち、もはや彼の国籍な
ど問題ではありませんでした。賀川の伝記は読む者の心を捕らえて離さず、少年
時代の私の想像力に大きな影響を与えました。とはいっても、私が彼の伝記につ
いて深く考えたのは、またキリストの福音が個人や社会に与える影響について理
解するために彼の伝記がどんな意味を持つのかを考えたのは、それから何年も先
のことでした。

 
その頃、私はバプテスト教会の牧師になり、説教の中で賀川や彼の業績について
しばしば紹介していました。牧師になりたての頃、私は教派を超えた集会で何か
論文を発表するよう頼まれました。即決したテーマは「賀川豊彦の人生とその影
響」でした。アキシリングの伝記を用いて私はその論文の準備をしたのですが、
その作業は刺激的かつ感激的でした。内容は仲間の牧師たちにかなり伝わったと
信じています。彼らの中には賀川のことを聞いたことがある者もいましたが、賀
川の生き様や彼の聖職者としての仕事の詳細まではさすがに知りませんでした。
この論文発表の時に用いたノートは、その後も機会あるごとに何度も使ってきま
した。この文章もそのノートを基にしています。

賀川に対する私の印象や、長きにわたって彼から受けた影響について書きはじめ
るにあたり、彼がどのようにして純粋にキリスト教を信じるようになったか、ど
のようにしてその信仰を自分の生き方に直接活かし続けたか、という二点に焦点
を当てたいと思います。

賀川は若い頃から向学心旺盛で、アメリカ長老派宣教師たちから英語のレッスン
を受けていました。その時のテキストの一つに、ルカによる福音書の英語版があ
りました。彼はその内容にとても感銘を受け、「神よ、我をイエス・キリストの
如くしたまえ」と祈るようになったのです。

その時から、彼の人生はその祈りの実現のために費やされました。長老派の神学
校に学んだ後、神戸の新川貧民窟で生活しながら、路端伝道をすることになりま
した。そこに暮らす労働者たちの生活状態は劣悪で、路地は舗装されておらず、
そこに並ぶ家屋はそれぞれわずか畳二畳程度しかありませんでした。衛生状態も
ひどく、不潔になって病気が発生しました。そこはまた犯罪や売春の温床でもあ
ったのです。

 
学生伝道者として何度もそこを訪れたことがあった賀川は、神の愛について語る
だけでは不十分だ、貧民窟の住人と一体化して問題を解決する、という実践的手
段をとることを通じて神の愛は現されるべきだ、と思ったのです。その結果、賀
川は住む場所のない人には住まいを提供し、病人を引き取っては看病を施したの
です。彼が住まわせていた人々の中には、殺人を犯してしまい、賀川の手を握っ
ていないと眠りにつけない、という男もいました。

このような貧民窟の住人とのかかわりにより賀川は、他にもたくさんの社会的問
題に取り組まなければならない、そうしないと改善は見られない、ということに
気づきました。

私が感動するのは、恵まれない人々に対して共感したり愛情を示したりするだけ
では不十分であり、彼らの状況を改善するためには実際に何か行動を起こさなけ
ればならない、ということを賀川が悟ったことでした。彼は工場や田畑での労働
条件を調査し、労働組合活動や土地改革運動に加わることになりました。このこ
とにつきましては、後述いたします。

賀川の状況改善に向けての情熱的献身が、現状を引き起こした根本的理由の観察
や調査と結びついた、というところに私は特に感心いたします。「貧民窟の生活
を見ている時、社会の病弊がわかる」という彼の発言は、誠に深い洞察です。貧
民窟における状況(労働条件、乳児死亡率、病気、売春)は、すべて相互に連結
しあっている、ということに賀川は気づいていました。都市部の人口過剰により、
人々は行き場を失い、貧民窟へと流れました。それはまた小作農の状況とも関係
していました。彼がこれらの問題をどれほど真剣にとらえ、その答を見つけるこ
とにどれほど心血を注いだかは、後に彼がアメリカヘ行って、自分が経験したり
見聞したりしたことの社会学的、経済学的意味を研究した、という事実をみれば
わかります。

 
アメリカでの研究の後、彼は政府や他の関係当局に出す報告書の準備をしました。
しかし、ここが彼の賢明な所なのですが、そのような公文書を人々が読むことも
なければ感動することもない、ということを知っていた彼は、研究成果を土台に、
『死線を越えて』という小説を書きました。その本はベストセラーになり、社会
に大きな影響を与えました。その結果、新川貧民窟だけでなく他にも五つの都市
の貧民窟をなくすための措置がとられました。彼自身は本の印税を使って、恵ま
れない人々のケア施設を金銭的にバックアップしました。

帰国後、賀川は工場労働者や農民の組織を作るのに一役買って、彼らの状況を改
善しようとしますが、それによって彼の活動やその影響が広がり始めました。し
かし、彼が関心を示したのは権利だけではなく、労働者自身についてでした。彼
は三つの要求をしました。

一 生きる機会
二 働く機会
三 人間であることの明かしを示す機会

賀川は、組合は必要だが、労働者の内なる目醒めなくして労働問題を解決するこ
とはできないと信じていました。

賀川は独りでこの問題に取り組んでいたわけではないのですが、貧民窟での彼の
活動が彼の名前を押し上げ、その結果一九二一年、神戸の造船所でのストにおい
ては、「指導者」にかり出されました。また同じ年、農民組合設立もまかされる
ことになりました。これらのことは、秩序ある社会はキリストの福音に基づいて
築かれなければならない、とする彼の考えを実践するのに役立ちました。彼はこ
の信条を伝えるために全力を注ぎました。国中をまわって集会で演説をし、新聞
や自分が書いたものを大いに利用しました。『死線を越えて』の他にも彼は「貧
困の心理」に関する本を書きました。

このような努力を続けていたおかげで、一九二三年の関東大震災までもが、日本
を変えようとする賀川に味方してくれたのでしょう。震災後、日本政府は帝国委
員会を設けて国土の再建に努めました。その委員会は一八〇人のメンバーで構成
されていましたが、その中には国内有数の有識者も含まれており、首相自身が議
長を努めました。賀川は、貧民や弱者に対する福祉を勝ち取るために、しばしば
政府と衝突していたにもかかわらず、政府高官以外で委員会に招聘された唯一の
メンバーでした。この委員会の最終報告に賀川の考えが多く反映されていること
は周知のことです。

その後、賀川は失業者対策委員会、職業安定委員会、移民委員会の仕事を依頼さ
れました。そして一九三一年、貧民窟問題にさじを投げていた東京において、社
会福祉局の指揮をとってくれるように頼まれたのも賀川でした。この仕事で賀川
が報酬を受け取るなどということはいっさいありませんでした。

個人の運動も社会の運動も、魂の力、愛の力に頼るしかないと信じていた賀川は、
戦争自体は勿論、戦争に結びつくあらゆる事に反対の立場をとりました。暴力が
排除されてはじめて経済的運動はその目的を最大限に達成できる、というのが賀
川の考えでした。暴力に基づく経済は学問の領域ではなく、軍事の領域に属する
ものです。唯一真実の道は、内から湧き出る愛と分別を貫いているのです。これ
は彼が貧民窟に住んでいた時に実践した理念でした。その頃彼は様々な理由で暴
力の脅威にさらされていました。しかし彼は警察に助けや保護を求めることもな
く、また暴力の脅威に屈することもありませんでした。人は対立や暴力では救わ
れない、という考えに従うことをよしとしたのでした。

ですから賀川が、国際連盟に提出された徴兵制反対マニュフェストに名前が載っ
た唯一の日本人であったということも頷けます。そのマニフェストには、賀川以
外にタゴール、ガンジー、アインシュタイン、ロマン・ローラン、その他戦争反
対を唱える著名な指導者達の署名があります。

一九二八年、賀川は日本反戦連盟を組織しました。この組織には、進歩主義的政
治家、学者、宗教指導者、文士ら様々な人々が参加しました。その組織の綱領に
は次の三つの主要な項目がありました。

一 我々は反対する。戦争は勿論、あらゆる軍備に。
二 我々は反対する。全ての侵略的な帝国主義的、政治的、経済的、知的活動に。
三 我々は反対する。侵略擁護、帝国主義的発言、 弱者への抑圧に。

これらの目的を支え、追求していくために、幅広い活動が行われました。

他方、賀川は神の国運動という名のもとでの、キリストの福音を大規模に広める
努力を始めました。個人個人であれ少人数でも、キリスト教徒によって達成でき
ることがあるということを賀川は信じ、また彼自身それを実証していましたが、
その一方で、より多くの人々がキリストの生き方に従えば、もっと多くのことが
実現できると確信していました。そして実際、何百万もの人々に教えを説くこと
を目標としたのでした。

神の国という観点からキリストの福音を解釈する賀川の捉え方は、私自身の考え
方に多大な影響を与えました。この解釈によって、個人としてキリストの弟子で
あることと、社会に関心を持ち行動をすることが、一つのものとしてつながった
のです。実際私は次のようなことまで言うようになっていたものでした。

「賀川は、教会が余りに長きに渡ってキリストが説く福音よりもむしろ、キリス
トにまつわる福音を説教している、ということを私に確信させてくれたのでした。
本来は前者のほうが神の国の良き知らせ、福音、なのです」

 
賀川が大きな困難にも屈することなく幾多の偉業を成し遂げた、という事実を知
るにあたり、彼の人物やその業績に対する私の尊敬の念は深まりました。賀川の
父は地域の著名人で、天皇の顧問団のメンバーでもありましたが、賀川自身は、
父親が実業界に入るために神戸に引っ越した際、不義によって生まれた子供でし
た。賀川同様の子供が他にも三人いましたが、自分の子として父親が引き取った
のは賀川だけでした。しかし、賀川が五才になるまでに両親は共に亡くなり、彼
は先祖代々の故郷である阿波に戻ることになりました。継母や養祖母の家に愛は
ありませんでした。彼女達は彼に罰を与えることにのみ気前がよかったのでした。
賀川は竹やぶや河岸、また家の中にあった天皇の記念室などに慰めを見い出して
いました。
彼の一族には偉大な歴史や伝統がありましたが、それは彼に平穏や幸福をもたら
しませんでした。賀川はこのような辛さを味わっただけでなく、身体もひ弱で、
結核、腎疾患、緑内障にかかり、挙げ句の果てには視力障害になってしまったの
です。しかし、このことは、賀川豊彦が深い信仰の人であるだけでなく、身体の
健康に左右されない強靱な精神の持ち主であった、ということを確認させてくれ
るのです。私自身視力障害をかかえていますが、視力がないのは羽根のないこと
と同じで、人は他に飛ぶ方法を見い出した、という賀川の考えに私は感動しまし
た。

賀川はクリスチャンとしての業績や奉仕においては大きな成功を治めはしました
が、その過程で多くの反対や困難にも遭遇しました。貧民窟での活動においては、
彼にたかる者もいて、必要な金銭や衣服が手に入らないと、彼を殴ろうとしたの
です。また、貧民窟の現状打破に反対する人々もいました。例えば、賀川が助け
ようとしたある売春婦の夫は、家族から収入を奪う気か、と言って反対していま
した。

労働者や農民の権利そして現状に賀川が関心を示すと、当局は例のごとく彼を抑
圧をしたり投獄をしたりすることがありました。労働組合の内部においてさえ、
急進的革命分子や共産主義分子によって疑念を抱かれていました。後に彼の政策
が当局に受け入れられるや、当局と組んでいると見なされ、裏切り行為として糾
弾されました。他方では、彼の反戦思想・平和思想は多くの人々の怒りを買いま
した。アメリカ平和主義者、ソビエト共産主義者の手先だとののしられました。
そして国家反逆者として公然と非難され、彼の命は脅かされました。その結果、
警察が彼を保護拘留する事態にまでいたったのです。

人生を通して彼を支え、多くの業績を可能にしたのは、彼がただ単に行動の人で
あっただけでなく、非常に深い宗教心の持ち主であったからだと、私は信じてお
ります。彼は多くの時間を祈り、断食、宗教的黙想に費やしました。賀川にとっ
て信仰とは、人生の全てにかかわるひとつの術でした。彼は初期教会の共産生活
を育み、促進しようとしました。共産主義的・社会主義的なプログラムは現実的
過ぎて、理想とは言えない、と彼は考えました。神を見い出す道は人々の中にあ
る、と彼は信じていました。

 
このすばらしいキリスト教徒に関するアキシリングの伝記には、アキシリングが
賀川語録と呼んでいるものが含まれており、彼の宗教心の中には強い神秘的な要
素があることを示しています。その賀川語録はいつ読んでも興味深く刺激的で、
しばしば黙想の際に用いたものでした。いくつか抜粋して紹介いたします。

「奇跡だ! 奇跡だ! 生は奇跡だ! 死は奇跡だ! 法は奇跡だ! 現実は奇
跡だ! 病いは奇跡だ! 回復は奇跡だ! 万物には私が所有していないものが
ある。これは奇跡だ!」

「信仰は、天国へ向かって開かれた魂の窓だ! 信仰は、神が人間の魂の中へ深
く掘った井戸だ。神はこの開かれた窓から常に魂をのぞいている。そしてやがて、
その魂が天へ向って開かれたこの窓から、勇敢に歩を進める日が来るだろう。」

このような調子で賀川は、芸術、科学、宗教など様々なテーマについて書き記し
ました。とりわけ、罪、苦悩、愛に関しては多くの記述があります。他にも多々
述べてありますが、締めくくりとして次の「神を求めて」(On Finding God)を
引用いたします。

「神は最も卑しき人々の中に住む。神は監獄の罪人の中でほこりの山の上に腰を
おろす。非行少年と共に神は戸口に立ち、パンを乞う。神は乞食と共に施しの場
へ向かう。神は病人の中にいる。神は職業紹介所の前で失業者と共に列を成す。
故に、神と出会いたい者は、寺院へ行く前に独房を訪れよ。聖書を読む前に、戸
口に立っている乞食を助けよ。」

縷々述べてきましたように、ただ単に人生について考え、それを書き記しただけ
でなく、実際にその思想を実践した賀川豊彦という人物を知り得ましたことは、
私にとってこの上なく光栄なことだと思っております。

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 財団法人国際平和協会 編集責任:伴 武澄 mailto:kyokai@jaip.org
 バックナンバー http://www.pubzine.com/detail.asp?id=20632
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