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□□■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ メルマガ国際平和 No.40 2003年11月09日 http://www.jaip.org □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□■■□□□□ 自由奔放に生きた東久邇稔彦元首相の話 国際平和協会理事 伴 武澄 国際平和協会の創設者は賀川豊彦であるが、戦後日本のあり方を模索するよう 求め、最初の基金5万円を自ら提供したのは元皇族の東久邇稔彦(ひがしくに・ なるひこ)氏だった。協会の資料を整理していて13年前の東久邇氏死去の新聞 の切りぬきが見つかった。興味深い内容でもあるのでここに転載します。 ■戦後処理内閣首相 東久邇稔彦氏死去(平成2年1月20日付日経新聞夕刊) 明治天皇の女婿、皇太后さまのおじで、敗戦直後の混乱期に首相を務めた元皇 族の東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)氏が二十日午前八時五十四分、心不全 のため、東京都渋谷区広尾の日赤医療センターで死去した。百二歳だった。葬儀 ・告別式は二十六日午前十時から文京区大塚五ノ三九ノ一の宮内庁豊島岡墓地で。 喪主は稔彦氏の内孫で昭和天皇の外孫にあたる東久邇信彦(のぶひこ)氏。自宅 は東京都目黒区青葉台一ノ四ノ三。 明治二十年十二月三日、久邇宮朝彦(くにのみや・あさひこ)親王の九男とし て京都で生れた。農家に預けられたが、上京して学習院初等科を経て陸軍幼年学 校に入学。明治天皇弟九皇女の聡子(としこ)内親王との結婚を含みに明治三十 九年、皇族の一員として迎えられ「東久邇家」を創設した。陸軍士官学校、陸大 卒業後の大正四年、聡子内親王と結婚したが、本人同士の意思を無視した結婚だ ったために反発。同九年夫と二人の子供を置いて単身フランスに渡り、画家のモ ネ、政治家のクレマンソ−と親交を深めた。 大正天皇が亡くなられたのに伴って帰国。軍事参議官を経て、昭和十三年に第 ニ軍司令官として出征、徐州作戦や漢口作戦に参加。十四年に陸軍大将に進級、 太平洋戦争開戦直後の十六年十二月、防衛総司令官に就任した。戦時中も軍国主 義に批判的で、日米開戦を避けるよう東条首相に談判したこともあった。終戦で 鈴木内閣が総辞職したあとを受けて二十年八月十七日首相に就任した。敗戦の混 乱を収拾するための、前例のない「宮さま内閣」だった。軍の武装解除、進駐軍 の受け入れなど当面の戦後処理をし、十月九日幣原内閣にバトンタッチした。翌 二十一年、連合国軍総司令部(GHQ)から公職追放され、二十二年十月、他の 皇族とともに皇籍を離脱した。 「私の記録」「やんちゃ孤独」「一皇族の戦争日記」のどの著書がある。故総 子夫人との間に四人の子供がいる。長男の盛厚(もりひろ)氏は昭和天皇の長女 照宮成子(てるのみや・しげこ)さんと結婚したが、成子さんは昭和三十六年七 月に、盛厚氏も四十四年二月にそれぞれ死去した。盛厚氏と成子さんの間には五 人の子があり、昭和天皇の外孫になる。さらにひ孫五人がいる。昭和六十三年二 月、宮内庁病院に入院し、同五月から日赤医療センターに転院、療養を続けてい た。 ▼首相が哀悼の談話(同) 海部首相は二十日午前、東久邇稔氏が死去したことについて、「東久邇氏は、 大戦の終結というわが国にとって極めて困難な時期に首相としての重責を担わ れ、降状文書の調印、戦時体制の平時化、進駐軍の受け入れなど種々の難事業 に当たられた。 この間、日本の再建を信じ、ご努力、苦労されたことは忘れることができな い。謹んで哀悼の意を表する」との談話を発表した。 ▼自由奔放に生きる 故東久邇稔彦氏(同) 二十日朝亡くなった元皇族の東久邇稔彦さんは、終戦直後の「皇族内閣」 の首相として知られるとともに、自由奔放な暮らしぶりで数々のエピソードを 残した。 視野の広い外国通、国際感覚の豊さは、大正時代のフランス留学で養われた といわれる。 昭和二十年八月、首相に就任する際には「真っ平ご免です」といったん断っ たものの、昭和天皇の要請もあって引き受けた。 組閣直後「全国民が総ざんげすることが、わが国再建の弟一歩」と一億総ざ んげ論を展開、さまざまな議論を呼んだ。山崎内相らの罷免問題などで、連合 軍総司令部(GHQ)と対立。初の皇族内閣は約五十日間の短命に終わった。 東久邇さんが最後まで反骨を通した結果だった。 昭和二十二年、皇族の身分を離れた後は、いろいろな商売に関与したり、新 宗教の教祖に担がれもした。だが、十二年前に夫人に先立たれたほか、長男、 ニ男もすでに故人に。晩年は白内障のため目が不自由になり、ひっそり暮らし ていた。 叔父にあたる東久邇稔彦氏の死去に伴い、皇太后さまは二十日から二十六日 まで、七日間喪に服される。 ■皇族から「平民],乾物商・新興宗教開祖 102歳、次々と話題・・・奔放に(平成2年1月20日付朝日新聞) 皇室の殻に閉じこもらず奔放に生きた「やんちゃ皇族」の東久邇稔彦さんが 二十日亡くなった。百二歳、歴代の皇族にも例をみない最長老だった。明治天 皇の皇女と結婚しながら単身、日本を離れてフランスに渡たり、軍人皇族時代 も「平和」を口にして軍ににらまれたりした。戦後、首相として敗戦処理にあ たり、「一億総ざんげ」を説いた。その後、乾物商、新興宗教の開祖....と波 瀾に満ちた生涯だった。 最晩年は、子供や孫とは別に一人暮らし。お手伝いさんらが身のまわりの世 話をするほかは訪れる人も少なく、視力もほとんど失い、終日、机に向かって ラジオを聞く毎日。数年前から入院生活を続けていた。 貧乏宮家だったため、生れてすぐ農家に預けられた。物に束縛されない生き 方は子供のころからだった。「自分ながら、やんちゃ坊主で学習院の思い出と いえば、いたずらをして叱られたことばかり」と自ら書くほどで、当時のいた ずら仲間が、後の作家、里美驕だった。 東久邇宮家を創設、皇族になってからも奔放ぶりは変わらず、陸軍大学に入 学草々の明治四十四年、明治天皇との陪食を身体の不調を理由に断った。当時 皇太子だった大正天皇に「陛下のご招待を断わるとは何事か」ととがめられて 言い合いになり、「皇族を辞める」といきまいて、ひと騒動起したこともある。 大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の病状が悪化したため、宮内省がフラ ンスから帰国するように再三要請したが、従わなかった。天皇が亡くなられた あと、しぶしぶ帰国した。 フランス留学時代は、パリの陸大、政治法律学校に通い、社会主義に関する 講義も聴き、「資本論」も研究した。画家のモネのアトリエに通い、そこで知 り合った老政治家クレマンソーと親交を深めた。ここでの自由な物の見方が後 の生き方に大きな影響を与えたという。 昭和二十年八月、昭和天皇に請われて首相に就任。降伏文書の調印など敗戦 処理を担当した。組閣直後の記者会見で「全国民総ざんげすることがわが国再 建の第一歩」と発言。「国民に戦争責任を転嫁するものだ」と批判を招いた。 後日、「過去を忘れて新しく出発すべきだという気持ちからで、他意はなかっ た」と語っている。 さらに、敗戦の責任をとって直宮家以外の皇族は全員皇籍を離脱すべきだ、 と主張、他の皇族をあわてさせた。結局、昭和二十二年十月、十一宮家・五十 一人が皇籍を離れた。 新宿駅西口マーケットに乾物商、続いて宮家の家具、調度、書画を売りさば く古美術商。さらにはポンせんべい機販売と、次々に出したが、いずれも失敗。 「平民」として生きる難しさを味わわされた。二十五年には新興宗教「ひがし くに教」の開祖となって世間をあっと驚かせたが、公職追放中の身にふさわし くない、というGHQの意向を受けてこれも挫折した。東京・高輪の約四万平 方メートルの土地について「終戦直後、陛下から賜ったものだ」として国を相 手に所有権確認の訴訟を起すなど、話題にはこと欠かなかった。 晩年は白内障で視力をほとんど失い、五十三年には聡子夫人と死別した。そ の後、神奈川県在住の女性が稔彦さんの知らない間に妻として入籍していたこ とがわかり、ふたたび話題をまいたが、六十二年、最高裁で婚姻無効が確認さ れた。 注:本稿は理事の潮厚宏氏にワープロ打ちを願ったものです。紙面を借りて お礼申し上げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 財団法人国際平和協会 編集責任:伴 武澄 mailto:kyokai@jaip.org バックナンバー http://www.pubzine.com/detail.asp?id=20632 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 配信システム: Pubzine( http://www.pubzine.com/ ) 購読解除: http://www.pubzine.com/detail.asp?id=20632 問い合わせ: fwgc0017@mb.infoweb.ne.jp |
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