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□□■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ メルマガ国際平和 No.19 2003年04月06日 http://www.jaip.org □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□■■□□□□ 父親を偲ぶパラオ鎮魂の旅 共同通信社記者 伴 武澄 昨年5月末、パラオ南方のウルクタープルの島影に父の遺骨の一部を散骨して きた。パラオの松島ともいえそうなセブンティ・アイランドと日本人が「くじら 島」と名付けた小島を望む海域である。 言葉で表現できないほどの美しい島々の世界は若き一海軍士官の思い出の地で あり、苦楽を共にした同僚たちの眠る海でもあった。 父は第二次大戦を「過ぐる戦」と表現していた。世界最強の国家にアジア人が 挑んだ唯一の戦争に対する自負があり、「侵略」とか「解放」だとかいった言葉 で単純に言い表せない重い意味が父の体の中にあった。さむらいの子孫として、 国家のために死ぬことに疑問はなかった。むしろ、そうした行為に崇高な意味が あった。そんな時代に青春を過ごし、戦の後に次々と「思想転向」する時代に人 生の過半を過ごした。 一昨年5月に父が死んでから書棚から見つけたのは南太平洋に関する数冊の本 であった。パラオの話が父の口から出るごとに「お父さん、一緒に行きましょう よ」と何回か言ったことがある。その都度、返ってくるのは「まあやめておこ う」。そんな意味の言葉だった。 父がパラオ行きを逡巡した理由は分からない。「飛行機の中から真っ青な南の 海を見下ろすとその海に吸い込まれそうな気持ちになる」ということをよく話し ていた。父の心の中には死んでいった「英霊」たちへの思いがずっとあった。戦 争体験のない者には触れることのできない感情なのだろうが、たぶん生き残った 者としてその英霊たちに出会った時に返す鎮魂の言葉がなかったのだろう。 父がパラオに滞在したのは1944年2月から3月である。前の年の11月、 日本の支配化にあった東の端のギルバート諸島のマキン、タワラがアメリカ軍に 占領され、続いて2月、トラック諸島の守備隊が潰滅した。アメリカ軍の本格反 攻が始まった時期である。連合艦隊の旗艦「愛宕」に搭乗していた。 思い出の記である「パラオ恋しや」に当時のパラオについて書いている。 「司令長官(後の"栗田艦隊"の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の 演奏が始まるのです。勇ましい軍歌ではありません、荘重なクラシックな のです。マキン、タワラが玉砕し、トラックがあれほどの打撃を受ける状 況下に、海軍では第二艦隊の旗艦愛宕にまだ軍楽隊を乗せていたのです。 毎日のように軍楽隊の演奏のもとで食事をとる風景、みなさん想像ができ ますか。私のように音楽の素養のないものでも優雅な気分にだけはなった ものですよ。在りし日の海軍、その威容を語る懐かしの風景でありました」 大方の戦記と違って、父の描く当時の連合艦隊にはまだ「余裕」があった。こん なことも書き遺している。 「休みの日がこれまた傑作、パラオで一番大きいコロール島の山登りが楽 しみでした。余分におにぎりを作ってもらって、"お腰にさげて"という気 分で出かける。パラオの子供たちがぞろぞろついてくる。まるでパイド・ パイパー、日本流だと桃太郎の絵図です」 戦争というものは毎日、ドンパチしているのではない。 「やがて太平洋戦争の天王山、空前絶後の大海戦の舞台になる海域にあり ながら、私はいかにも平和なパラオの雰囲気の中で、副官事務と庶務主任 の仕事に精出していたのであります。戦争というのは、戦国時代にあって も大名たちが毎日戦闘していたわけではないんですね。インターバルがあ る。その間に何年もの『平和の時』が入っていることさえ珍しくはなかっ たはずです」 「日本の歴史でも世界の歴史でも、小説家が描くものに影響され、戦争と 言えば戦いの連続のように思いがちですが、現実の戦争はそういうもので はありますまい。国民全部が戦争をひしひしと身近に感じた大東亜戦争末 期の主要都市無差別爆撃は、半年近く切れ目無く続きましたが、あれはも う、勝負が決まって止めを刺す行動の時期だったと見るべきではないでし ょうか」 父が実戦を体験するのはその3カ月後の1944年6月の「マリアナ沖海戦」 である。帝国海軍の機動部隊が数時間で完膚なきまでにたたきつぶされた海戦で ある。本土への空爆を可能にするマリアナ諸島のサイパンがアメリカの手に渡り、 9月にはパラオのペリュリュー島への攻撃が始まり、守備隊1万2000人が玉 砕する。 父親への鎮魂の旅の結論はない。南国の楽園で夢想するのは「戦闘の凄まじさ」 であるが、一方で「武の喪失」についても考えざるを得なかった。 5月25日、くたびれた単発のパイパー機でペリュリュー島に向かった。パラ オのコロール島の日本人古老といってもいい倉田洋二さんに「ぜひ」とすすめら れた。ここまで来て太平洋戦争の激戦の地を見ないわけにはいかなかった。 コロール空港を飛び立って40分後、ペリュリューの島影が見え、南部にある 滑走路に降り立った。客は筆者と母の二人きりである。滑走路には背筋をピンと 伸ばし海軍帽をかぶった日本人が迎えてくれた。中川束さんである。前夜、倉田 さんが電話をしてくれていたようだった。 中川さんは、奈良県で経営していた建設会社をたたんで10年程前に住民50 0人ほどのこの島にやってきた。1932年、3歳のとき父母に連れられてパラ オ島に移住した開拓農民の一人だった。若くして航空隊に志願したが、戦地に赴 く前に終戦となった。玉砕した1万2000人が遺骨収集もままならず眠るこの 地を、養子にした島の息子と二人で守っている。 ペリュリュー島には二つの滑走路が交差している。東西1500メートル、南 北1800メートル。開戦前夜に建設された当時としては南太平洋最大の飛行場 だった。東のトラック島、そして開戦直後に陥落させたニューギニア東のニュー ブリテン島にあるラバウルを結ぶ航空基地としての位置付けがなされた。 余談だが、当時の国際社会は、日本が国際連盟を脱退した後も日本が南洋群島 を委任統治することについてちゃんと認めていた。委任統治領に軍事施設を建設 するのは御法度だったため、一応「パラオ第三農場」という名目で建設工事が始 まった。飛行場建設では沖縄から多くの働き手がやってきた。パラオ在住日本人 に沖縄の人が多かった理由の一つでもある。 パラオは地理的にフィリピンの東に位置する。ペリュリュー島の上陸作戦はマ ッカーサー率いるアメリカ軍によるレイテ島上陸作戦のための航空支援基地確保 が目的だった。ニミッツ提督率いる米太平洋艦隊は6月、すでにマリアナ海戦で 勝利し、南太平洋における日本の機動部隊を潰滅させ、日本本土上陸作戦のため の航空基地をテニアン島に確保していたが、マッカーサーはフィリピン奪還のた めにペリュリュー島を欲しがった。 1944年9月15日、そのニミッツ提督指揮下の米軍は400隻の艦船と1 7万発の爆弾で総攻撃を浴びせた。第81歩兵師団を中心とした米軍2万800 0人が南東部のオレンジビーチに殺到した。迎える守備兵は中川州男大佐率いる 陸軍第14師団歩兵第2連隊を軸とした1万2000人。 物量に勝るアメリカは数日でペリュリュー島を占領する考えだったが、結果的 に2カ月の月日と1万人を超える尊い犠牲を払うこととなった。中川連隊長は兵 力だけで二倍以上の米軍と対峙するに当たって、海岸線での戦闘を避け、米軍が 上陸した後に大規模反攻を試みた。1日でも長く米軍をペリュリューに引き付け ることでレイテでの戦いを有利に導こうとしたのだった。 3日間に及ぶ艦砲射撃でペリュリュー島の海岸線のジャングルは丸裸になった。 しかし、日本軍は500を超える人工、天然の洞窟陣地に立てこもった。洞窟内 には数十門の大砲が据えつけられ、アメリカの上陸部隊にかつてない被害をもた らした。上陸地点のオレンジビーチはアメリカ軍兵士の血で赤く染まったという。 ペリュリュー島には砲撃で潰滅した旧海軍指令部跡、ゼロ戦や米軍機の残骸、 焼けただれた戦車などが随所に放置されてある。さながらジャングルの中の戦闘 博物館である。中川さんは「戦跡は探せばまだいくらでもあるはずだが、一人で 探すのは体力的無理」と嘆く。 中川さんの説明を聞きながら、戦跡を歩くことは戦争体験そのものである。灼 熱の太陽が照りつけ、汗がとどめなく流れるのだが、58年前の兵士のことを思 えば「暑い」とはいえない。戦争を意味のないことだと語るのは容易である。戦 争反対のトキを上げるのも簡単だ。しかし、現実に戦いは21世紀になってもな くなったわけではない。そんな国のために戦う行為が崇高でなくては死んだ兵士 はたまらない。 戦後、生き残った人たちには、戦地で死んでいった仲間に対するある種の負い 目があった。父もそのことをよく口にした。ある意味では「いいやつ」が先に死 ぬのが戦争なのかもしれない。ジャングルの中で熱い思いにかられながら、ふと 「人柱」という古い言葉を思い起こした。こういうところで死んでいった兵士た ちが戦後日本の人柱になっていると考えることは感傷でもなんでもない。 中川洲男連隊長は11月22日、パラオに向けて「サクラ、サクラ」を打電し、 玉砕した。戦闘が終わって、上陸部隊の第323連隊のワトソン大佐は岩山をく り貫いた日本軍の指令部を訪れ、中川大佐以下、日本軍将兵の割腹した姿を発見 した。 ワトソン大佐は、直立不動、敬礼した。中川大佐の戦いぶりに最大級の敬意を 表したのだった。ワトソン大佐もまた武人であったといわざるをえない。日本は 鬼畜米英と戦ったのではない。武人同士の壮絶な戦いの場を訪ね、今思い出して も鳥肌の立つ思いがする。 そんな話がいまもペリュリュー島に伝わる。 この戦いは、後にニミッツ提督をして「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克 つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘 損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っ ていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領し たことは、今もって疑問である」といわしめた戦いであった。 つまり、ペリュリュー島を占領する前の10月15日、アメリカ軍はレイテ上 陸作戦を完了していたから、一万を超えるアメリカ軍の犠牲は太平洋戦争の大局 になんら貢献しなかったことになる。ニミッツ提督の嘆きはいわれのないことで はない。 そして、そのニミッツ提督がペリュリュー島に残した石碑がある。 諸国から訪ねる旅人たちよ この島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊指令長官 C・W・ニミッツ ニミッツ提督は生涯、日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八 郎元帥に私淑していたと伝えられる。戦後、横須賀にあった戦艦「三笠」保存の ために私財を献じたことも知られる。ニミッツ提督もまた武人であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 財団法人国際平和協会 編集責任:伴 武澄 mailto:kyokai@jaip.org バックナンバー http://www.pubzine.com/detail.asp?id=20632 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 配信システム: Pubzine( http://www.pubzine.com/ ) 購読解除: 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