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□□■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ メルマガ国際平和 No.18 2003年03月30日 http://www.jaip.org □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□■■□□□□ 『わたしのギニア』齊藤清 (ギニアの山師) ◆マングローブの風 熱帯の湿った匂いが鼻をくすぐる。マングローブの森をすり抜けてきた風が頬 をなでる。1973年12月、西アフリカ・ギニアのベシア空港。沈みかけた太 陽が、平板で生気のない空をぼやけた茜色に染めている。空港のくすんだ建物は 薄暗闇の中に溶け込み、か弱い灯りがまばらに見えるだけ。故郷の夜汽車の駅だ って、もっと明るかったはずだ。覚悟していたとはいえ、不安はつのる。 それにしても長い旅だった。まだ成田空港ができる前の、しかもロシア上空の 通過ができない冷戦の時代で、エールフランス機は羽田国際空港からまずアンカ レッジへ向かい、給油の後、北極の上空を通過してフランスへ。そこで飛行機を 乗り換えてギニアまで。これだけの行程でも、初めて海外への旅をする身にとっ てはなかなかに大変なもの。当時のパリは、これもまだシャルル・ドゴール空港 が完成する前で、乗っていた飛行機はパリのオルリー南空港へ降りることになっ ていた。ところがその朝は、空港周辺に霧が立ち込めていて着陸できず、南フラ ンスのマルセイユ空港まで飛んで、ここでパリの霧が晴れるのを待つことになっ た。東京から20時間を超える、とにかく長時間の飛行の後なのに、狭い座席に 縛り付けられたまま、マルセイユ空港の看板をはるか窓越しに眺めるだけの姿勢 で待機させられ、さらには、尽きた食料の補給はなく、水とキャンディーが配ら れるだけのひもじい時間が延々と続いた。飛行機がパリに戻り、やっと解放され てホテルに着いたのは、夜もかなり遅い時刻だったように記憶している。 そして翌日、現在は軍用として使われているフランスのル・ブルジェ空港をア フリカに向けて飛び立った。しばらくしてジブラルタル海峡の上空を通過。それ からずっと、眼下にはサハラ沙漠だけが続いていた。そして、海に出会い、陸に まばらな木立が見える頃、機は夕暮れのギニアへ到着。 ◆ギニア縦断鉄道計画 その夜は、鉄パイプに帆布を張った簡易ベッドで落ち着かない時間を過ごす。 宿舎の朝食は、歯ぐきから血がにじむほどに固いフランスパン。それでも、食糧 事情の悪さから、特別に配給を受けた小麦粉を、パン屋に持ち込んで焼いてもら っていると聞かされれば、不平を言えるはずもない。 1958年、「縛られた状態での豊かさより、貧しくとも自由であることを望 む」と宣言してギニアはフランスから独立。それから15年を経過した1973 年、独立当初の夢と熱狂はすっかり覚め、庶民の飢えは、指導者の思惑をはるか に超えるものとなっていた。そのうえ、政府を批判すれば誰かに密告されて投獄 されるかもしれない、という重苦しい空気がギニア全土を覆う時代であった。呼 吸をすること以外、すべて許可を受けなければならないほどの「不自由」な国。 そのような国内状況の中で、国家プロジェクトとしての「ギニア縦断鉄道計画」 の測量調査が始まった。内陸のボーキサイト原石と鉄鉱石を、首都の港まで運ぶ ための総延長800キロの鉄道。建設コストを低く抑えるため、線路は最短コー スを貫くという基本方針があって、人里を遠く離れた、象の住む山の中にまで、 地元の猟師を護衛にして測量調査隊が入った。 山の清流沿いにテントを張り、川の水を飲み、ドラム缶で風呂をたて、穴を掘 り草で囲って便所を作り、時には川魚を釣っておかずの足しにし、そして眠った。 猟師が仕留めた鹿の肉を、ハゲワシと分けあったこともある。 ◆山の夜の訪問者 新月の夜。テントの布地を隔てた向こうに、荒い息遣いをする生き物の気配を 感じて目を覚ます。小さな動物ではない。それがライオンではないことを願いつ つ――息を潜める。犬はいないはずだし、あるいはイボイノシシか。森の精霊か もしれない。静かな山を少し荒らしてしまったから、脅かされても仕方がない。 隣のテントに声をかけることはためらわれ、ただじっとして、耳を澄ます。動き が取れないままに、テントの中の闇に向かって目を見開く。それから――そのう ちにテントの外が白んできて、お客の姿は消えていた。 もっと小さな闖入者に、しかしひどい目にあわされたこともある。まだ、それ ほどには夜が更けていない時刻。すぐ近くに張られた現地雇いの人夫たちのテン トから、絞り出すような悲鳴。続いて、別の男の助けを求める声。戯れている様 子ではない。しかし、気後れがしてテントを出る気にはなれない。それでも、名 前を呼ばれて、「懐中電灯」という単語が耳に届いたときには、テントのジッパ ーを開けて首を突き出し、光の束を騒がしい方向に向けて「どうしたのか」と問 いかけ――ようとした途端、首筋に痛みが走った。サンダルを引っ掛けて外へ一 歩踏み出したその足にも、鈍い衝撃。反射的に右手で首筋を払い、左手で足元に 光を投げかける。てらてらと光る飴色の大きな蟻たちが、ふくらはぎにまで這い 上がり、サンダルは、テント周辺に展開した兵隊蟻の群れの中に溺れている。振 り返ってテントを照らせば、布地の表面は蟻に征服され尽くしている。キャンプ 地一帯は、兵隊蟻の大群の奇襲を受けて完全に制圧され、全面が飴色のカバーで 覆われた状態にあった。それはおそらく、山への侵入者に対する警告。――雨季 が近づいた、いくぶん蒸し暑い夜のこと。 ◆村の夜の訪問者 山を抜け出て、地方の村の藁葺きの家を借りたことがあった。どろ壁の、簡素 な木のドアが一枚あるだけの、きのこ型の家。窓はない。土間の広さは二十畳く らいあった。家の中で火を使っていたためか、天井の木組みはじっくりと燻され て、薄暗闇に溶け込んでいる。日中でも、人の表情が読めない程度の明るさ。夜 ともなれば、目をあけていても、見えるものは皆無だった。 乾季も末の頃、この村の近くの水場には小さな水溜りが残っているだけで、細 い川の流れは途切れていた。ここで泥水を汲んで、炊事をし、ドラム缶風呂を沸 かす。炊事用の水はフィルターで濾すことにしていたから、それほどの問題はな いものの、風呂では、火の勢いが強くなるとメダカが光る腹を見せて浮かび上が った。ほこりを落とし、汗を流すことが優先される場所では、これはまったくの 邪魔者で、掬い取って捨てるしかない。――もっと大きな魚であったら食べられ るけれど。 山の夜の闇のささやきと、清涼な生活環境は良かった。細い山道は何本かあっ たものの、人の歩く姿を見かけたことはなかった。太い蛇がいた。鹿も蟻もいた。 象の足跡は、乾いた泥の中にいくつも残っていて――キャンバスベッドの寝袋で、 前のキャンプ地を思い返しながらうつらうつらしていたその時、右耳に激しい風 が吹きつけた。枕もとの懐中電灯に手を伸ばしたものの、すぐにはつかめず、手 探りしている間に、第二波の風。今度は低いうなり声を伴っていて、その方向を 手でさえぎれば、すれ違いざまに、ぬめりのある感触が顔面に伝わってくる。牛 が、牛が顔を舐めた。 大声を出しても牛はあわてず、家の中を一瞥する仕草をした後で、悠然と木の ドアをくぐって姿を消した。土間には月明かりが射し込んでいる。そしてすぐに、 その光に影が射して、若い娘が二人。笑っているようにも思えたけれど、暗すぎ てさだかではなかった。灯油ランプに火を入れて、「牛に顔を舐められた」と、 身振りで示したものの、伝わっているのかどうか。さらに、「もう寝ている」と 表現して見せても、立ち去る様子はまったくない。折りたたみ椅子をベッドのそ ばに寄せて、病人を見舞う客のように、男の寝巻き姿を真顔で覗き込んでいる。 月明かりを背に、ずいぶんと長い時間滞在してから、所在無さそうに帰っていっ た。 これは「夜這い」とでも呼ぶべきものだったのか。村の慣習だったのかもしれ ないし、あるいは、礼を失してしまったのかもしれないと、今でも思うことがあ る。もっとも、牛と若い娘二人が一緒の夜の訪問では、若すぎた男にとっては荷 が勝ちすぎていた。 ◆ギニア再び ギニアの初代大統領セク・トゥーレが1984年に病死。そのすぐ後に軍のク ーデタが成功して、現在の政権が成立。そこで、国内が安定した頃合を見計らっ て、1987年12月、十数年ぶりのギニア訪問を実行した。旅好きの日本人を 募っての、一行12人による2週間の団体旅行であった。 この頃は、東京のギニア大使館の支援を得て、ギニアで昔から飲まれている天 然のお茶「ケンケレバ」(登録商標)を、日本の市場で細々と販売していた。ギ ニアのほぼ全土で自然に育っている灌木ケンケレバの葉を輸入し、日本人向けに 健康茶として製品化したものだった。ケンケレバは、植民地時代以降、フランス では薬用植物として認知されていた。日本茶よりもずっと豊富なカテキンを含み、 白いカップに透き通った夕映えの色を映し出す、紅茶風の飲み物。――けっこう おいしいお茶だったのだけれど、日本人にはまだアフリカが遠すぎたらしい。情 報の不足と偏見から、アフリカはすべからく怖い場所であり、そんな土地で採れ たものを口に入れたりしたら、とんでもない結果が待っている、と頑なに信じこ んでいる人が多かった。季節が早すぎたのかもしれない。売れ行きはよくなかっ た。 けれどもギニア側は、「ケンケレバ」の普及努力に対する感謝、という形で報 いてくれた。旅のすべてはギニア外務省がお膳立てをした。ギニア国営ラジオの 記者が同行、訪問先の県知事が応対し、行く先々の状況はラジオで随時レポート される、という仰々しいものではあった。参加者の言葉によれば、「国賓並み待 遇」。結果として、圧政で疲弊しきった国の人々が、新しい大統領に託した希望 の絵を垣間見る旅となった。そしてこの旅が、わたしの「ギニア狂い」に再び火 をつける火打石となってしまった。 ◆地図のない黄金の国 それから2年後、「山師」として、ギニアでの活動を開始。国策企業に続く免 許番号9番の鉱業権を得て金鉱山開発に携わることになった。東京の山の手線内 の面積の数倍はある400平方キロの鉱区。なだらかな丘の続く、まばらな木々 に覆われた大地である。鉱区のはずれを、50キロほど下流で大ニジェール川と 合流するフィエ川が流れている。雨季には青草が生い茂り、乾季には、熱風が草 木をいたぶる典型的なサバンナ気候の土地。 まずは現地の正確な地図探しから始まった。日本政府の無償援助によるギニア 全土の地図作成プロジェクトが、1980年代、日本企業の手で実施された事を 知っていたから、現地の地理院を訪ねた。しかし、全土の航空写真撮影が済んで その一部は地図化されたものの、すべてが完成する前にプロジェクトは打ち切ら れ、現地で保管されていたはずの航空写真のネガもすべて散逸してしまっていた。 数年間にわたる作業の結果は、残念ながら、ごく一部の関係者の記憶の中に残っ ている映像だけであった。 そこで、宗主国であったフランスが1940年代に撮影した航空写真と、その 成果である二十万分の一の国土地図を入手し、それに資源衛星からの最新情報を 加味して鉱区の基本図とした。 ◆ウサギ小屋での仮住まい 村の集落から少し離れた丘の上の宿舎が立ち上がるまで、ギニア人スタッフも 含めて、村に家を借りることになった。村で一番立派なトタン屋根の四角い建物 には、のぞき窓ともいえる――猫だったら通り抜けられる程度の木造りの小さな 蓋のついた部屋が、三部屋あった。蓋を開けると部屋の中がいくらか明るくなる。 案内されたその時、土間にうずくまっていた白い塊たちが、外からの光に照らし 出されて動くのに気がついた。それは闇の中にいた、なぜかウサギたち。 日本では、「ウサギ小屋」という言葉が、本来の意味とは別に、狭い窮屈な住 宅を意味していた時代だったけれど、仮の住まいとはいえ、実際にウサギが住ん でいた部屋に寝起きすることになるとは、あまりにも皮肉なことではあった。む ろん、これは村長の好意であり、拒否するわけにはいかない。 疲れ果てて昼寝をしようにも、トタン屋根は容赦なく部屋の温度を上昇させて くれる。夜になっても、昼の間に十分な熱を吸収したどろの壁が、保温効果たっ ぷりに寝苦しさを演出する。舞い狂う蚊の大群と、流れる汗と、ウサギの糞の残 り香と。 食事は戸外のテーブル。しかし、村の子供たちが群れて覗き込む。箸を運ぶ姿 に掛け声がかかる。風が乾季の砂塵を連れてくる。蝿も黙ってはいない。ともあ れ、朝から晩まで――いや、次の朝まで、穏やかな時間は存在しなかった。 それでも村人は、いつもあたたかく迎えてくれていた。貧しい生活ながらも、 表情に暗さがない。いつも和らいだ笑顔。とくに子供の笑顔の屈託のなさは、日 本ではとうの昔に忘れられてしまった古典的な笑顔だった。 ◆金の採掘開始 そのようにして、フィエ川の氾濫源を見渡す丘に宿舎が完成し、深さ70メー トルの井戸を掘り――ついでに、村にも同じ深さの井戸を手押しポンプをつけて 2本贈呈し、発電機を据え付けて、仕事を始めるための生活環境は整った。19 94年、乾季もだいぶ進んでいた。 大型の土木機械や、カナダから送り込んだ金選別装置やらをフィエ川の氾濫源 に配置した。そして、数年をかけて調査と採掘準備を進めてきた堆積鉱床での金 採掘は始まった。露天掘りの、それほど難しい技術を必要としない作業。単純と もいえる。金の市場価格と、生産コストとの睨み合いが、事業としての最大の関 心事であった。 この時期、各国の――ことにアングロサクソンの鉱山会社がギニアの金鉱を求 めて、高地ギニアの原野にとめどなく参入してきていた。ギニア鉱山省が発行し た金鉱調査のための免許番号は100番を突破した。すでに空いている土地がな くなっていたらしい。金の可能性はない、と推察される場所にまで調査グループ が入った。その頃の金の市場価格は、2003年のちょうど今くらいの高値で推 移していた。金掘り業者に優しい季節――その後急落して、長い冬の時代が続い たけれど――だった。 わたしの鉱区にも、米国の大手会社が提携を求めてきた。まだ調査の済んでい ない部分の、初生鉱床の埋蔵量を確認する作業を彼らと共に進めた。村の古老は、 村人の立ち入りはタブーとなっていた昔の金採掘跡を、いくつも教えてくれた。 そのおかげもあって、調査は効率よく進み、大きな埋蔵量が見込まれるポイント がいくつか確認された。国際的に通用する規模の鉱床であった。 それから金業界の風の向きが変わり、つい最近まで、ひと吹きされただけでも りつくような過酷な風が吹き荒れていた。わたし自身も、凍てつく風に翻弄され るままに、楽ではない長い時間をギニアの大地で過ごしてしまった。――多くの 人に迷惑をかけながら。 ◆まだまだギニア この間、ギニアの日本大使館に協力し、「草の根無償資金援助」の一環として、 手弁当で、地方の村の小学校や診療所を十件以上建設したりもした。村人の喜ぶ 顔に、面倒な苦労も十分に癒された。 地方に住む大部分の人々は、現在でも1973年の頃のままに貧しいけれど、 首都では一部にとびっきり羽振りのいい人種も現われてきている。この国のいび つな豊かさと貧しさを拡大させながら、19年目を迎えた現政権。金属疲労はか なり進み、異臭も漂う。しかし、多くの国民は、昔からの優しい心を変わること なく紡ぎ続けている。 そんな中で、若い日の夢であった「ギニア縦断鉄道計画」の青写真は、30年 の時間を経過した今、国際的な大手資源会社の手で実現される段取りが固まった。 わたしが恋してしまったギニアの30年。まだ幕が降ろせないでいる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 財団法人国際平和協会 編集責任:伴 武澄 mailto:kyokai@jaip.org バックナンバー http://www.pubzine.com/detail.asp?id=20632 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 配信システム: Pubzine( http://www.pubzine.com/ ) 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