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「アジアの意思ぱーと3」シンポジウム
新渡戸稲造が描いた平和地図

日時: 2006年1月14日(日)午後0時−3時半(2時頃からビュッフェ)
場所: 銀座スターホール(銀座4丁目、日産ギャラリーのビル)
申し込み: thinkasia@yorozubp.com または下記世話人へ
世話人: 伴 武澄、寶田時雄、大塚寿昭、平岩優、園田義明

園田義明氏 伴 武澄会長 吉村暢夫氏

「新渡戸稲造が描いた平和地図」−アジアの意思シンポジウムVから
 武士道が生まれるまで
 平和憲法に生きる新渡戸精神


二〇〇六年一月一四日 銀座スターホール
司会  伴 武澄(共同通信社デジタル戦略チーム委員)
報告者 吉村暢夫(財団法人新渡戸基金事務局長)
     園田義明(国際平和協会主任研究員)

 アジアの意思ぱーと3を開始します。この会は三年前に始まった。アジアや日本のことを考える縁となってほしいという思いがあった。仲間一人が言い出したThink Asiaという発想を元に第一回は孫文を取り上げた。去年は八田與一を中心にアジアでの土木工学に貢献した人々について議論した。今年は新渡戸稲造をめぐって西洋との架け橋論を展開したい。今日は盛岡市の財団法人新渡戸基金から吉村暢夫事務局長をお招きした。吉村さんには「武士道が生まれるまで」について、主任研究員の園田義明さんには「平和憲法に生きる新渡戸精神」についてお話をうかがいます。

 新渡戸とその時代背景

 伴武澄 まず私から新渡戸稲造とその時代背景について問題提起したい。新渡戸が最近、注目されるようになったきっかけは『武士道The soul of Japan』という著作の再評価にある。それまで多くの日本人にとって新渡戸はお札の顔だった。一つの時代の要請と考えざるを得ない。昨夜、お札になった人の顔を思い浮かべた。戦後、一番長くお札の顔になったのは聖徳太子。一万円、五〇〇〇円、一〇〇〇円と三種類。今はないが、五〇〇円は岩倉具視、一〇〇円は板垣退助だった。
 一九八四年に大改革があり、一万円が福沢諭吉、五〇〇〇円が新渡戸稲造、そして一〇〇〇円は夏目漱石となり、五〇〇円はコインになった。それから二〇年経た二〇〇四年の改革では、福沢は生き残り、新渡戸と漱石が消え、樋口一葉と野口英世が登場した。
 お札の顔を決める審議会があるのではなく、財務省の密室の中でいつの間にか決まる。二〇〇四年の時も突然出て来た。誰かがこれらの人たちをデビューさせたいのだという意思表示かもしれない。新渡戸は三年前に退場したが、『武士道』でさらに有名になった。
 『武士道』について、ここに居られる方々はほとんど理解していると思う。恥ずかしい話だが、私は学生時代に『武士道』を読んだつもりでいた。もう一回読んでみたいと思って買い改めたところ、初めてであることが分かった。読んだのは内村鑑三の『代表的日本人』だった。
 私の感想は世間で評価されている武士道とはまったく違う。出版されたのは一九〇〇年一月だから、書いたのはそのもっと前、ロシアと戦うなんて想像も出来なかったころである。アメリカはスペインと戦争をして、キューバとフィリピンを我がものにした。日本は清国と戦って台湾を領有したが、遼東半島は三国干渉で取り上げられた。中国では清国への列強の侵略に義憤の念を持った義和団の変が起きていた。義和団が北京に迫った時、日本を含む列強が北京で籠城した。その時の日本軍は軍記が厳正で最も勇敢に戦ったという逸話がある。これは北京発ロイター電を通じて全世界に伝わった。
『武士道』がそんな時代に出版されたことを忘れてはならない。新渡戸は学生時代に外国人の先生から「日本には宗教がないのにどうやって道徳を教育するのか」と問われたことがずっと頭の中にあって、たまたまアメリカで療養していた時に一気に書き上げるのだ。
すでに新渡戸には西洋の宗教や哲学に対して一級の理解があった。その上で武士のたしなみや日々の守るべきことがキリスト教の教えと非常に似ているということを書いたのだが、このことは西洋人に非常に受け入れられやすい。決して西洋と違う生き方を描いたのもではないというところが重要だ。
 いま武士道をもてはやしている人たちは、いかに日本が違う民族であるかということを強調したいがために『武士道』を持ち上げている。書いた本人は決してそんな気持ちで書いたのではないと思う。違う意見の方あれば後で反論してほしい。
この時代に、この本はルーズベルト大統領も読んだということになっている。作り話ではないかと思っていたら、どうもそうではない。後に国際連盟の事務局次長としてジュネーブにいた時に、ルーズベルトのおばさんが会いに来て「大統領は何十冊も買って親戚や知人に配った」ということを話した。だから大統領は本当に感動したのだろうと思う。
 前後して、世界に英語で発信した日本人が何人かいた。どういうわけか集中して発信された。最初は内村鑑三だった。一八九四年『日本及び日本人 Japan and Japanese』を書いている。一九〇八年の『代表的日本人 Representative Men of Japan』は有名だが、前著の改訂版である。
違う観点から一九〇三年には岡倉天心が『東洋の理想 The Ideals of the East』をロンドンで出版した。これは日本というよりアジアを紹介した本でインドから中国、日本に到る文化・芸術の大きな流れについて語っている。「アジア・イズ・ワン」と書いたのはアジアがみな同じだといっているのではない。多様性の中にあるが、一致団結してほしいという願望をこの本に託したのだと思っている。
鈴木大拙という宗教学の大家は一九二七年に英文で『禅論』三巻を完成させるが、英語で最初に書いたのが一九〇〇年『大乗起信論』だった。宗教の観点から岡倉天心と同じようにアジアの意思をアメリカの人々に伝えたかったはずだ。
 日清戦争を契機に、日本は近代国家としてデビューしばかりで、たぶんアジアのスターだった。孫文はその時分、何回も日本に来ていた。孫文の弟子となった津軽の山田良政は一九〇〇年に広東省での中国革命の最初の蜂起で犠牲になっている。中国革命で命をなくした最初の日本人だった。津軽といえば、お隣の南部藩出身の新渡戸とはどこかで出会いがあったのではないかと想像している。
 フィリピンのアギナルドはスペインからの独立のため日本に協力を求めてきた人物だが、アメリカに騙されて、米西戦争でアメリカに協力しながら不遇の身をなる。その少し前、朝鮮半島では金玉均という革命家がやはり日本を頼ってきた。韓国では売国奴となっているが、当時の極東における国際情勢を考えるとそう簡単に切り捨てていいのか考える必要がある。ベトナムからはファン・ボイチョウという人が日本に密航してきた。最後の王朝をフランスから守るためにそれこそ釜たきに身をやつして来た。
 当時、日本という国はアジアの革命家の巣くつのようなところでもあったのである。そのころまで日本の目は相当程度アジアに向いていたし、アジアからもまぶしい目で見られていた。列強からはたぶんまだ、坊やのような感じで受け止められていた。そういう時代に日本からアジアを発信続けた代表が新渡戸稲造であり、内村鑑三であり、『日本の禍機』を書いた朝河貫一だったのだ。
そういう時代を頭に入れた上で次の吉村先生のお話を伺いたいと思います。

 新渡戸稲造の生涯

 吉村暢夫 新渡戸の少年時代。文久二年八月三日生まれとなっているが、自身の履歴書には九月一日となっている。この違いは明治六年に導入された太陽暦の影響である。
盛岡に生まれ、九歳まで過ごした。父親十次郎は盛岡藩士、十和田湖周辺を開拓して広大な農地を切り開いた。後に江戸の留守役となる。
 母親はせきという。子どもは九人だがせきとの間の子は七人。稲造は末っ子として、可愛がられた。長男は生まれたころ成人していた。優れた土木技術者で、明治になって各地の水利工事で活躍している。二番目の兄道郎は一番仲が良かったが体が弱く、明治七年には亡くなっている。男の兄弟はなつかしい存在だ。
 父親が慶応三年に亡くなっている。その後、せきに育てられた。利かん坊でがき大将だった。母は女手一人では育てられないと思い、稲造が九歳の時、兄道郎と二人を東京の伯父に預けた。養父には子どもがなかった。東京には洋学を学ぶところがたくさんあった。その一つで東京帝大の前身となる東京英語学校に入った。そこでは後に北海道大学の総長となる佐藤庄助と席を並べた。明治八年、札幌に開拓使の学校をつくり、生徒を募集することになって、佐藤と二人で受験して合格した。しかし新渡戸は年齢が二歳たりなかった。二年待てといわれたが、次の年にもまた受かって札幌での生活が始まる。
 一年早かったが、先輩の佐藤庄助と一緒に農学校の生活が始まる。大変な張り切り屋で猪突猛進。学芸会などというと舞台裏を走り回るような快活な生徒だった。三年生の時、母に会いに盛岡に帰ろうと思い立った。東京に出てから一〇年、一度も母親に会っていなかった。今年の夏休みには是非会いたいと言うことで、札幌を出発したのだが、寮を出た直後に「ハハキトクスグカエレ」の電報が来ていた。稲造は知らず十和田湖などによりながら帰宅する。その時、橋を渡って家の玄関にはいると親類が全員集まっている。帰るのが分かって待ってくれたのだと思ってにこにこしながら入ると、肝心の母親の顔が見えない。一番年上の姉が、稲造をお位牌が置かれてある部屋に呼んだ。戒名も書かれてあった。初めて稲造は母親が三日前に亡くなったことを知る。
 稲造は東京の伯父さんの所に行って母の死を報告し、また札幌に帰るのだが、母の死を境に性格がすっかり変わる。それまでの稲造は活動的で「アクティブ」というあだ名とつけられていた。ところが物思いにふけるタイプに変わり、あだ名も「モンク」となった。修道僧だ。それほど母親に対する思い入れがあった。これは生涯、七二歳でなくなるまで続く。
 後藤新平は外遊をする時によく稲造を伴った。当時は半年、一年をかけて外遊をした。七月一五日のある日、ワシントンのホテルで部屋から出て来ない稲造を見ている。黙想している。目の前には、母からの手紙があった。母が札幌農学校の稲造に当てた一三通の手紙が全部表装されてあった。稲造はいつもこの表装された母からの手紙を携帯していた。新平はびっくりするのだが、妻のメリーさんもこの母の命日だけはそっとしておいたということだ。稲造にとって特別な日であることであり、母への思いを託した漢詩も読んでいる。それほどおかあさんっこだった。
 農学校の同級生に内村鑑三や広井勇、宮部金五らがいた。広井勇については昨年、このシンポジウムで話があった八田與一の恩師で、日本の土木工学の大家だ。稲造は札幌農学校を卒業して、北海道開拓使(道庁の前身)に就職した。農学校は授業料がただだったかわりに一定期間の就職を義務付けられていた。しかし二年経ったら、開拓使が廃止になった。そこで稲造は東京に出て東大の選科生としてもう一度勉強する。英文学の外山昭一教授のところに行って、選科生として学びたいと申し出ると「農学でなくどうして英文学なのか」と問われる。そこで有名な「太平洋の橋」が出てくる。外山教授もどういう意味か分からなかったが、「日本の良さを外国の人に知らしめたい。併せて外国の良いところを日本に知らせたい」と説明した。そういう思いがあった。
 東大出は英文学と経済を学んだ。そこで一冊の本を送ってくれた。『繁栄と貧困』という英語の本だった。まだ日本語の翻訳されていなかったので「ひとつ翻訳して出版してくれないか」と依頼された。稲造はがっかりした。8年も前に出版された英文の本がまだ日本で出版されていないことに。日本は八年遅れていると思った。そこでアメリカ行きを決意する。お金をかき集めてもらってアメリカに行った。私費だったから極めて厳しい旅だった。宣教師から推薦してもらったのは、アルギニ大学だった。すでに留学していた佐藤庄助に連絡すると「そこは三流だから、うちの大学にすぐ来い」ということになった。ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学だった。稲造にとって幸運だったのは、ジョンズ・ホプキンスではイギリスの・・形式の大学がほとんどだったのに、ドイツの・・形式の大学だった。そこの歴史政経ゼミに入った。佐藤庄助がそこにいたからだった。
 そこでユリ、アダムスというすばらしい教授たちに出会う。学生が6、7人。教授が二人という恵まれた環境。図書館は書棚が開放されていて、そこで大学院方式の授業を受けた。
宗教的な面では大きな転機が訪れる。ボルチモア周辺はクエーカー教徒が多い土地柄だった。ジョンズ・ホプキンス大もクエーカー教徒が創建した。大学のすぐそばにクエーカー教会であるミーティングハウスがあった。学生は自然にこのミーティングハウスの日曜日のミーティングに参加するようになった。稲造も参加した。
 稲造のキリスト教徒との最初の関わりは聖書だった。明治九年、明治天皇が東北を巡業した時、稲造のおじいさんの家に宿泊した。十和田湖から水を引いて開拓したことで御下賜金をいただいた。その一部を母親から「将来ためになるものを買いなさい」と送ってもらった。その二円で買ったのが聖書だった。それまで外国人教師からいろいろキリスト教の知識を得ていたと思うが、キリスト教に正面から立ち向かったのは自分で買った聖書だってからだった。
 ジョンズ・ホプキンスでクエーカーに出会う。いろんな教会に足を運んでいるが、ミーティングハウスは一番自分に合っていると考えた。祭壇はない。ただロの字にベンチがあるだけ。それぞれがやって来て黙想し、神の内なる光をつかむ。神の啓示があった人が立ち上がって話をする。そういう素朴な人中心の教会だ。それに稲造が感激する。
 フィラデルフィアで鉄道を経営していたモリスという人物がアジアから来ていた留学生たちを呼んで会合を開いてくれた。後に内村鑑三も一緒に行っている。モリス邸では日本の文化や生活について話をさせられた。
 終生の伴侶となるメリー婦人と出会うのもモリス邸だった。メリーの家もクエーカーだった。
 アメリカの後、ドイツに渡り、ベルリン大学を経てハレ大学で学位と取って再びアメリカに戻り、メリーと結婚する。メリーとの結婚は非常に大変だったようだ。クエーカーハウスに集まる全員の承認をもらわなければならなかった。全員のサインだから大変だった。苦労の末、結婚してメリーを伴って帰国した。明治二四年、稲造二九歳だった。
 帰国するとすぐ札幌農学校の教授となった。そこに生徒としていたのが有島武郎や伊藤清蔵。どういう情報網があったのか、新渡戸を慕って来た。しかも新渡戸に心酔しきって卒業していった。
 農学校では根を詰めすぎて極度の神経衰弱になる。転地療養というメリーの薦めでアメリカの西海岸のモントレーへ行った。そこで『武士道』を書き上げ、メリーの実家があるフィラデルフィアの出版社から出版した。これが一九九〇年の一月。一〇〇年を経て再びブームになったのはなぜか。もともと『武士道』は日本人向けに書いたのではなかった。日本では読めない本が海外ではベストセラーとなった。二〇カ国語に翻訳され、中国語もアラビア語もある。国際連盟の事務局次長になった時、イギリス人の・・・事務総長が稲造を大切にし、いつも自分の代理にしていた。日本から派遣された職員が問いただすと「稲造の話を聞けば分かるだろう」と答えたそうだ。
 任期を終えて帰国するとき、職員たちがアルバムをつくってくれた。そのアルバムに総長が「あなたは西洋人に対して東洋にも西洋に劣らない文化があることを身をもって知らしてくれた」と別れのあいさつを書いている。稲造の仕事の中に一切現れていたのだろう。世界各国から来た職員全員がアルバムをつくるなど普通ありえない。バイバイで終わりだ。それほぞ惜しまれた人だった。
 帰国すると『武士道』が著者の許可もなく出版されていた。教科書にまで使われていた。欧米では道徳教育は宗教で持っている。日本ではどうして?考え付いたのが九歳までの母親の躾だった。「うそをつくな。小さい子や弱い子をいじめるな。貴方は武士の子どもですよ」。東京に出てからはおじさんに躾られた。その一つ一つが道徳教育だった。サムライの子として恥ずかしくない躾があった。それを思い出して書いたのが『武士道』だった。
 単なる戦の・・・ではない。いわゆる道徳の本なのである。

  ありがとうございました。一番、びっくりしたのはミーティングハウスの全員にサインをもらわなければならなかったというクエーカーの婚姻制度だった。それができたということはまたすごいことだと思う。新渡戸って何だったのか。どういう人だったのは、実は分かっていない。お札の顔しか思い出せないのでははずかしい。武士道のほかに台湾での新渡戸は李登輝さんが高く評価している。願望として、八田與一の故郷、金沢訪問を実現させたが、まだ盛岡訪問が残っている。去年、実現しかかったができなかった。
 台湾では植民地経済をどう自立させるかが過大だった。考えようによって新渡戸は植民地政策の尖兵ということもできるが、どうも違うらしい。そこらを補足して下さい。

 吉村 アメリカから帰国したところ、後藤新平が民政局長をして台湾に赴任する際、産業振興の起案者として稲造にきてほしいとなった。横浜港に使いを寄越した。職名は技師。産業振興の技師。まず糖業改良の意見書をつくって総督府に提出した、「その通りやれば絶対大丈夫」と太鼓判を押した。稲造の意見書は受け入れられ。糖業の改良が始まった。ところがこれが大成功。冬至、台湾は日本からの予算がどんどんつぎ込まれていた。一〇年を経ずして台湾経済は自立し、日本に資金が環流するまでになった。そのことが一つ。
 後に植民政策を京大、東大で教えたが、現地の文化を大切にすることや世界の文化をあまねく現地に広げることの必要性を強調していた。イギリス、スペインは多くの植民地を持っていたが、台湾、朝鮮に帝国大学を置いたのは日本だけ。その前に旧制高校も置いた。李登輝さんは台北高校を出て京都大学に入った。新渡戸の武士道に看過されて、京大の農学部を選んだ。直接触れ合いはなかったが、影響は非常に大きかった。糖業改良意見書も高く評価している。
 李登輝さんには『武士道改題』を出版された時に会いに行った。故宮博物館の近く山道を入ったところにお宅があった。李さんは純粋な新渡戸ファン。会ったこともないのに武士道改題を書いた。すばらしい弟子ではないか。

  それでは園田さんお願いします。

 平和憲法に生きる新渡戸精神

 園田義明 さて、今日は新渡戸稲造の思想や人脈がどのように現在の日本に生きているのかをお話ししたい。人脈地図を配ったので参考にしてほしい。テーマとしては四つ、一点目は生まれた背景。二点目はその人脈、三点目は新渡戸と平和憲法のつながり。最後は天皇家と新渡戸スピリットの関係である。
 私の娘がジャニーズのファンで、正月に放送されたヤマピー主演の「白虎隊」にかじりついていた。結局新渡戸が世に出た背景にはこの白虎隊の悲劇に大きく象徴されている。新渡戸もまた賊軍とされた南部藩の出身であった。 
 どことどことがどう手を組むか。勝てば官軍。負ければ賊軍。会津は京都を守るため、いったんは薩摩と手を組んで長州を追い出す。しかし最後に薩摩は長州と組んでしまう。そして会津を含めた奥州越列藩同盟が賊軍にされていく。
 当時の状況を日本で数少ない超リアリストであった大久保利通の孫にあたる大久保利謙が幕末政治を「幕府・朝廷・諸雄藩によるバランス・オブ・パワーとして出現した」と書いている。幕府の求心力が弱まる中で、朝廷を担いだ雄藩が薩長を中心にまとまるが、これには地理的な要因も大きく影響した。日本では竜馬などの人物像に話題が集中しがちだが、地政学から見た明治維新というのも重要な視点だろう。

 戊辰の役は東西戦争

 一八六八年からの戊辰の役は日本の内戦であり、東西戦争だった。実はその直前の一八六五年にアメリカでは南北戦争が終結している。不要になった武器が大量に日本に入ってきた。これを購入する財力が戊辰の役の勝敗の鍵になったようだ。薩長にはトーマス・グラバー、ジャーディン・マセソン商会がつき、幕府側をフランスが援助した。会津はヘンリー・シュネルらと組んだが、時遅しとなった。
 どうしてこんな話をするのかというと、私の作った表をみてほしい。明治期のクリスチャンには奥州列藩同盟出身の人が多い。こうやって見ていくとその怨念がいかに強かったかが分かる。
 新渡戸も賊軍側の南部藩。新渡戸は札幌バンドに属した。札幌農学校時代に「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士に影響を受け、新渡戸も内村鑑三もここでクリスチャンとなった。プロテスタントのメソジスト派である。この集団は後に北海道帝国大学から現在の北大につながる。後に新渡戸はアメリカ留学中にクエーカーと出会い、日本人初のクエーカー教徒になる。新渡戸の奥さんのエルキントンも当然クエーカーであった。この新渡戸のクエーカーの出会いは戦後の日本に絶大な影響を与えることになる。
 当時最大だったのは横浜バンド、ここはヘボン塾。後にバラ学校、バラ塾からブラウン塾などと名前を変えながら明治学院を拠点に大きな人脈をつくっていく。有名なのが奥野、本田、押川ら。それぞれに日本のプロテスタント史に名を残している。 
 横浜バンドの中に井深梶之助がいる。名門会津七家の一つである井深家一族で、父は会津藩校日新館学頭の井深宅右衛門重義。ソニー創業者の井深大はこの井深家一族である。
 熊本バンドは熊本洋学校が中心で地元の人が多い。後に同志社大学の設立に大きく関わるが、ここに山本覚馬という人物が登場してくる。山本の妹の八重が新島襄に嫁いでいる。この覚馬は会津出身でこれまた日新館に蘭学所を創設した人物である。覚馬は京都府会議長時に新島が大阪で学校をつくりたいと言った時、大阪はダメ、京都に来なさいと同志社を誘致した。
 この時何が起きていたかというと新渡戸の武士道の中心にある殿様つまり主君は負けてしまい没落、おまけに廃藩置県で藩までなくなった。藩士は一斉にリストラとなった。今のリストラとは比べものにならない厳しさがあった。
 この時、ある者は真っ向から軍部で頑張ろうと思ったのでしょう。ある者は国際化時代の到来を予見し、横浜や札幌に出て英語を学ぼうとした。前者の代表は南部藩出身の東條英教・英機親子、後者の代表は新渡戸であった。新渡戸らは英語を学ぶ過程でキリスト教と出会い、宣教師の人格にも惹かれてクリスチャンになる。これが賊軍といわれる中からクリスチャンが生まれた背景である。薩長閥が政官軍を牛耳る中で生き延びるための選択肢が少なかった。
 新渡戸も含めて明治期のクリスチャンは武士道にこだわる。これは明治維新を主導した尊皇の志士のほとんどが下級武士出身で武士道に欠いていたからだ。それに対してキリスト教に身を捧げる宣教師達に武士道に通じるものを感じたのである。後にクリスチャンでありながら国家主義、帝国主義者と呼ばれてもおかしくない程に変貌を遂げる人物も現れる。明治維新の教訓から付和雷同を選んだのかもしれない。
 キリスト教者からの新渡戸批判も多い。なぜクエーカーという平和主義者が当時の日本を弁護するような発言を繰り返したのか。しかし、新渡戸だけではなく、当時はだれもが付和雷同した。また、賊軍とされた経験から、権力、武士道、尊皇へのこだわりがあったのではないだろうか。これもまた東条英機にもあてはまるのかもしれない。
 いずれにせよ、明治維新によってタテの封建的な人間関係が崩壊して、新たな拠り所としてキリスト教が人々を惹きつけたのだろう。

 巨大なタテ・ヨコ人脈

 第二点として新渡戸の人脈。私の専門は海外企業の取締役会を一つずつ紐解いて、その人脈を調べることだが、海外はヨコのネットワークが非常に強い。大きな会社がA、B、Cとあって全部の役員をやっている人が少なくない。どうして日本で一般的でないか調べていくと、最近では日本でも確かにそうした人物が登場してきた。例えば三菱商事の槙原稔やカトリック教徒である富士ゼロックスの小林陽太郎。ここらの人はどうもキリスト教に影響を受けている人が多い。英語力ということを考えると当然だが、どこかヨコのネットワークを構成する時にキリスト教の影響が強いのではないかと思う。これはフィランソロピーへの関心の高さにも表れている。
 このように過去の日本の歴史を紐解いて、巨大な人脈を持っている人にぶちあたった。それが新渡戸だった。新渡戸人脈の特徴はタテとヨコの両方を持っていることである。タテ部分は一高時代の門下生を中心とした人々。ヨコは日本の平和活動をしていたギルバート・ボールズというクエーカーとの出会いが大きく影響する。内村と新渡戸がアメリカにいた時、「日本では女子教育が遅れているので、日本で女子学校をつくって下さい」とお願いし、初代宣教師としてジョセフ・コサンド夫妻がやって来て、ボールズはその二代目だった。新渡戸とボールズが関与した大日本平和協会は日米関係が悪化する中で一九〇六年に設立された。ここに重要人物が集結する。渋沢栄一、大隈重信、尾崎行雄、島田三郎。この時一斉にヨコの繋がりができる。
 このメンバーが中心となって一九一六年、日米関係委員会が生まれた、ここには大倉財閥の大倉喜八郎、金子堅太郎、井上準之助が入り、今から考えると日本のグローバリスト、国際派人脈のベースが生まれる。
 次にさらに太平洋問題調査会(IPR)という組織が生まれる。ここでは新渡戸が実質的な責任者となる。IPRがおもしろいのは、日米関係委員会のメンバーのほぼ全員が評議員となって、若手メンバーとして新渡戸と内村の門下生が一挙に招集される。ここで新渡戸のタテとヨコの人脈がIPRに集結して、若手を育てる機関にもなる。そしてIPR人脈が戦後日本を担っていく。

 憲法に深く関わった内外の新渡戸人脈

 三点目は平和憲法との関わりである。思い出してほしいのは昨年十二月のイラクでのフセイン前大統領の処刑である。私は複雑な思いでテレビを見ていた。私のように見ていた日本人は少ないと思う。一九四五年のギャラップ調査で「処刑すべし」が三三%、「終身刑」が一一%、「追放」が九%。三分の一が処刑すべきだと考えていた人物こそ、昭和天皇だった。
 当時、昭和天皇が処刑される可能性もあったのだ。それくらいアメリカ人は憎しみにあふれていた。
 時代的に昭和天皇をいかに守るか、処刑を回避するにはどうすればいいかということが新渡戸=クエーカー人脈の最重要課題だった。そのため昭和天皇は平和主義者であるという工作が始まった。天皇を守るために平和憲法が生まれたと考えてもいい。
 ここで手っ取り早くクエーカーを知るために、古い映画だが「真昼の決闘」を思い出してもらいたい。私も小さい頃に白黒の映画で見た記憶がある。一九五二年の傑作である。ゲーリー・クーパーが渋い保安官役で、美しいグレース・ケリーが新妻役という設定。新妻は父と兄を殺されて暴力が大嫌い。夫の態度にあきれて逃げてしまうが、最後には夫のために戻ってきて背後からピストルで悪者を撃つ。結局クエーカーの教えに背くわけだから、クエーカーの人達からは評価されていないようだ。
 クエーカーは聖書も重視しないために、プロテスタントの中でも異端視されることが多い。限りなく「内なる光」に近づいていく。ほとんど黙想の世界なのだ。一番有名なのは絶対平和主義、兵器は持たない、武器もいらない。マイナーな教派だから日本でも今や少数派である。しかし日本国憲法九条の戦力放棄はクエーカーの考えに近い。クエーカーそのものと云ってもいい。
 戦後、この憲法に関わった人々の中で重要な三人がいる。マッカーサーの軍事秘書だったボナー・フェラーズ、それにヒュー・ボートンとギルバート・ボールズの息子のゴードン・ボールズ。ボートンとボールズは国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の極東小委員会(SFE)特別委員会に関与していた。そして、この三人すべてがクエーカーであり、それぞれ友人同士だった。
 彼らも昭和天皇を守ろうとした。そのために天皇が一貫した平和主義者で、戦争に反対し続けていたというシナリオが必要だった。平和憲法と引き換えに天皇の免罪を獲得したのではないかと考えざるを得ない。そのための弁明書として記されたのが「昭和天皇独白録」である。
 その実行者となったのが、日本の新渡戸=クエーカー人脈であり、ここにはアメリカからの先に紹介した三名が合流してくる。
 絶対平和主義のクエーカーの信条に近い平和憲法の生まれ落ちる中で、九条とともにセットとして重要なのが象徴天皇である。この象徴、即ちシンボルという表記は一九〇〇年の『武士道』(岩波文庫版)の三三、三四頁に見出すことができる。 
 クエーカーは日本という国を絶対平和主義国家に改宗させた。四七年にクエーカーの人たちがノーベル平和賞を授賞したが、改宗へのご褒美であったのかもしれない。 
 当時、共和党で非常に力を持っていたのがフーヴァー前大統領。フーヴァーもクエーカーだった。クエーカーの日本での活動はフーヴァーによって見守られていた。そして日本側の中心にいたのが吉田茂。実はここにからくりがあった。そもそも新渡戸=クエーカー人脈の形成は新渡戸本人が重要ポストに就いていたからこそ可能になった。いかに能力があっても社会的な評価がないと人脈など形成できるはずがない。では誰が新渡戸を重用したのか。それは牧野伸顕である。新渡戸を名門一高の校長に推したのも牧野であり、国際連盟の初代事務次長就任にも牧野が関わった。新渡戸の人生の転機に必ず牧野の姿が確認できる。牧野は薩摩の大久保利通の次男、そして吉田茂にとっては岳父にあたる。吉田もまた新渡戸=クエーカー人脈を重用しながら戦後保守本流を築いた。平和憲法を楯にする戦略を見事に操りながら、経済大国の礎を築く。一方で長州の岸信介は保守傍流に追い込まれた。吉田の孫である麻生太郎と岸の孫である安倍晋三が揃って政界を担う今の世は薩長時代がまだ生きている証であろう。安倍晋三が憲法改正に拘るのは、戦後傍流に追いやられた長州の怨念が絡んでいると云える。そしてまた新渡戸の存在こそが薩長と明暗を分けたのである。

 天皇家とクエーカー

 最後は第四点目。何が一番重要かというと天皇家とクエーカーの関係だ。戦中戦後のクエーカーの活動に対する感謝の気持ちを誰よりも示したのは皇室だった。二代にわたってクエーカーが皇太子殿下の英語教師に就いた。初代はエリザベス・バイニング、その後任がエスター・ローズである。
 その皇太子殿下の「即位礼正殿の儀」のお言葉を振り返ってみよう。

 さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
 このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。

 現在の天皇陛下にクエーカー教徒であった新渡戸のスピリッツが引き継がれていることがわかる。
 日本の保守派がよく米国の左翼ニューディーラーが日本国憲法をつくったのだから、あんなものいらないなどと語ることが多い。クエーカーだったフーヴァー元大統領は日本の保守派が今でも大好きな共和党であって、ニューディーラーではない。ちなみにクエーカーのアメリカ大統領は過去二人いて、フーヴァーとニクソンである。二人ともガチガチの保守。ひょっとして日本の保守派はお勉強不足だから、思い込みが激しいのかもしれない
 最後の締めとして、私は核武装を論ずることに大賛成、内心ちょっぴり日本核武装容認派だったりする。でも一応今日は新渡戸稲造に敬意を表して、クエーカー以前に日本に武器を捨てた歴史があったことを紹介しておきたい。
 川勝平太訳『鉄砲を捨てた日本人』。江戸時代の軍縮の話である。鉄砲大国となったはずの日本人が刀に戻ってしまう。世界史的に見ても珍しいと書いたノエル・ベルンのこの書は海外でも話題になった。日本もまんざら捨てたものでもない。クエーカーの原点が日本史に見出せるとすれば、日本が元祖だったのかもかもしれない。よって、我々は平和憲法を堂々と世界に誇っていいのだということで終わりにしたい。

  ありがとうございました。今までにない発想で戦前戦後の社会を切るのは園田さんの真骨頂です。それでは休憩に入ります。
  第二部に入ります。吉村さん、園田さんの話について質問がありましたら。
 津田 先ほど右の人たちがいろんなこといっていると話があった。誰でどんなことを言っているのか。
 園田 今質問したのは国際戦略フォーラムというサイトを運営していて、昔は正論グループに近い右といわれる人が多かった。最近ちょっと中央やや右寄りにやってきているのは私の影響かと思っている。奥さまが普連土学園の卒業生で、その父親もクエーカー教徒。家族がクエーカーというのは珍しい。
 津田 私はおばあさんが日蓮宗のある宗派の教祖のような存在で厳しく育てられた。だから座禅ができる。それとクエーカーは似ている。同じです。クエーカーのやっているのは禅だ。キリスト教徒は思えない。普連土の集まりで親父が言ったのは、相当上のランクの人が来ても友だち。そこへ行くとランクがない。すごい絆が強いと思う。ある仕事で困ったときに親父に相談したら、「分かった」、その時の衆院議長、名前は言えないが、のところへ行こうっていう。「どうして」って聞いたら「普連土仲間だ」という。これは日本にない。
  今のヨコとタテの話はおもしろい。二週間前に園田さんと話しした。むかし中根千枝さんが文化人類学から紐解いてタテ社会の日本とヨコ社会の西洋を描いた有名な本を書いた。
 園田 講談社新書で今でのよく売れているのが『タテ社会の人間関係』。日本は封建時代の上司部下の関係から始まって、江戸時代なら幕府があって藩があってそこに連なる武士達がいる。藩同士、ヨコの関係なかったのか。信頼の源に血があるように考える。安倍晋三さんが首相になったのは岸信介の支持者たちが安倍晋太郎を支持して、さらに信三さんに到る。世代に沿って信頼層が下りてくる。これもタテ社会といえる。
  新渡戸論でいうとき、封建社会が崩壊して、どうやって新たな人間関係が生まれるかという時、彼らが“失業者”としてヨコ社会のキリスト教に生きる空間を求めたのではないか。これは『武士道』にも書かれている。人間社会はタテとヨコがあるのでなくて、変革が起きた時、急にそれまでなかったヨコ社会が生まれたりするんではないか。だから一つの社会をヨコだとかタテだとか決め付けられないのではないかと思っている。
 園田 そうはいっても、私が取材でお世話になっている東京友会はフレンド派の日本本部。この席に呼んだのだが、来られなかった。それは日曜日だから。お昼から顔出してといったら、また断りの電話があった。若い人が結婚してお祝いの会があるという。毎週、教会に集まって、午後からまたざっくばらんに話をする。いろいろな世代、職業の人が日曜日の礼拝を通じていわば異業種交流会のようなことをやっている。仏教なり神道がやっていない世界だ。
  明治このかた国家が強かったからタテ社会が浮き彫りになりやすい。中国の方に共産主義社会というタテが強い社会が長く続いて、その後緩やかになっているが、変化があるのかないのか。
  私が中国にいた二〇年前は共産党中央があって、各県に支部があってタテ社会が強かった。今は変わって、情報の入り方が入った。特にインターネット。誰でも発信者となり、誰でも同時に受け取れる。タテ社会は崩れていくと思う。
 中野 安倍晋三のAbeは英語でエイブ。エイブラハム・リンカーン。アメリカで最も人気ある大統領だ。吉村さんの話、園田さんの分析力はすばらしかった。アメリカのシンクタンクでもここまでのレベルはない。戦前、国際連盟を作ったのはウッドロー・ウイルソン。そのウイルソンとジョンズ・ホプキンスで一緒に学んだのが新渡戸。その関係が面白い。アメリカが連盟に加盟していたらアメリカの孤立主義はなかっただろうし、ヒットラーも生まれなかったかもしれない。そうなると第二次大戦もなかったと思う。
 一方で岡倉天心が『アジアの理想』『アジアの覚醒』を言い出す。新渡戸は白人に恋をし、天心はインド人の女性に恋をした。ここらも面白い。天心は組織がまったくだめな人だったが、天心の思想は新渡戸より上だったのかもしれないと思っている。新渡戸が『武士道』を書いたのはアメリカがあまりに日本のことを知らないから。天心はアジア全体のことを考えた。ヒマラヤから東が儒教圏で西は仏教、そのヒマラヤの雪の上にあるのが日本の思想だと言った。両方とも併せた思想を言った天心はすごい。同じ時期に天心と新渡戸がいたが、天心は横浜の人。この一人の関係について知っている人がいたら教えてほしい。
  新渡戸と天心との接点について答えられる人いますか。
 園田 新渡戸系に天心は出て来ない。
  天心や宮崎滔天といったアジア派の人々はアジア革命のために心血を注いだ。西洋に向かって発信したのがキリスト教人脈だが、そこの接点があったのかというのはするどい視点だ。これからの課題にしたい。一人とも大人物だからどこかで出会いがあったはずだ。接点を持たないはずがない。戦後の我々がそういう視点でしかものを考えてこなかったということだろう。
 園田 もう一つ。天心の宗教が出て来ない。クリスチャンでなかったと思う。社会人としての経験からも、アメリカの人と付き合うときクリスチャンは便利だと思う。
  天心の日本美術の師匠はフェノロサ。アメリカ人で、この人が日本美術の再評価をした。天心がアメリカ人と付き合っていないわけではない。後にボストン美術館の日本部長にもなっている。インド人女性はタゴールの姪でしょう。ずっとラブレターを交わし合った仲だった。
 大塚 宗教だけで切ろうとしているがそれは危ない。天心も新渡戸も日本という国家の置かれていた時代背景なしには生まれなかった。アジア・イズ・ワンは列強がアジアのすべてを植民地にして日本と韓半島、中国の一部以外は白人国家の植民地だった。そのアンチテーゼもあったと思う。支配者側は分断と分裂を仕掛けていた。それに対する意識もどこかになった。明治政府は国家の分裂を避けるためにかなり努力した。廃仏棄釈をし、途中から産土神をつぶして神社まで統合、合祀した。
 国家のインテグレーションのため、白人国家の分断への対抗策とみることもできる。そのために本来の姿でなく、天皇の姿もあるやむを得なさもあったと理解している。歴代天応で軍服を着たのは明治、大正、昭和の三人しかいない。天皇でさえ違う姿にしてしまった。西洋の王や校庭と同じような存在が日本にもいるという見せ方をした。明治人のコンプレックスでの危機感でもあった。そういう時代背景が新渡戸や天心にもあった。
 宗教の開祖はシャカにしてもキリストにしても、空海でも思想はみな同じ。後継者たちが権力と結び付く課程で変質していく。ローマ法王が地球儀をスペインとポルトガルの支配に分けたなどというものとんでもないことだ。イエスがバチカンの豪奢な建物を見たらとう言うだろうか。そんな簡単な質問で、宗教の弱みを崩すことができる。宗教の教義を議論すれば、権力結び付いたいやしさがどこかに見つかる。すべて宗教の原点は同じと考えている。一番近いのが日本の汎神論ではないか。明治以降それを壊してきたのも日本だった。直接の議論の答になっていないが、天心の宗教が何だったか、そういう問題をたぐるのもいいが、国の置かれた当時の背景とかは非常に重要だ。
 インターネットはまさにヨコのすごい世界。ヨコは小さな世界だと安全だが、どどーっと広がると混乱する。そこにタテで混乱を抑える仕組みが必要となる。そんな時期があったということではないか。
  いろいろ重要な指摘があった。一つはタテとヨコと言えば、新渡戸を見いだしたのは誰かということ。・・・と後藤新平でしょう。




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