国際平和 Quest for International Peace  Spring 2003


目 次

巻頭言

ギニアで山師
となった私
齊藤清

北朝鮮の瀬戸際
外交に封じ手を
斎藤志郎

父親を偲ぶパラオ
鎮魂の旅
伴武澄

グローバル時代に
おける子供の教育
田中豊

日本人移民子弟
への日本語教育
潮厚宏

日本語教育と
ボランティア
藤田千尋

企業の社会貢献
第2回
伴武澄

航空技術の草分け
田中館愛橘
若松立行

賀川豊彦の世界2

編集後記


 田中館愛橘博士と私

              スペーストピア社長 若松立行

 私は旅行代理店として、ヨルダン航空やキューバ航空など日本に乗り入れてない航空会社の日本総代理店の仕事、そして特に力を入れているのは宇宙旅行の運航、運営で、新しい産業とすべく事業を展開している。海外に目を向け、空へそして宇宙へと誘ってくれたのは郷里岩手県二戸市の偉人であり、日本の科学技術の父といわれている田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)博士の存在である。幼少のころ、教師をしていた両親から幾度となく博士のことを、特に外国での研究、業績の話を聞かされ、知らず知らずうちに、このような道、仕事に誘われてきたのではないかと、運命的なものを感じるのである。博士は1951年の夏休みの時に二戸市の子どもたちに「月よりも遠くの星にいけるようになる」と予言していたということです。その時、私は二戸市の福岡小学校2年生で、その場には居合わせなかったのが残念であったが、この言葉が強烈に印象に残り、私の人生を決定付けた。

 田中館博士と航空・宇宙

 私の仕事とかかわりの深い博士の航空と宇宙に関する業績をみてみると、1904年(明治37年)、日露戦争が勃発した時に気球の研究に着手し、気球の気体注入装置を改良して陸軍に感謝され、39年に勲二等旭日章をもらっています。

 その後、国際会議のたびにヨーロッパの航空事情を見て回り、国際航空委員会の会議へ日本を代表して10回も出席しながら、研究を積み重ね、日本の航空技術や制度を世界的レベルに高めました。

 1907(明治40年)年、ヨーロッパ視察から戻り、東京大学で「長持ち」を改良して風洞を作り、翼の模型などで研究を始めました。明治42年に軍部が「臨時軍用気球研究会」を設立した時に委員として参加している。

気球の研究と並行して飛行機の研究を進め、かつその操縦法も必要との機運も生まれてきて明治43年4月、徳川好敏と日野熊蔵の両陸軍大尉が航空機操縦法を学ぶべく洋行を命ぜられた。同時に、飛行場も必要とのことから極秘のうちに所沢と決定が下ったものの、慎重を期して博士が航空界実情を視察に1910年(明治43年)に出かけるなどして、日本初の飛行場を埼玉県の所沢に作ることに尽力している。

 1916年(大正5年)4月、東京大学に航空学調査委員会が設けられ、その長となり、大正7年4月、深川区越中島に航空研究所を誕生させた。その後陸海軍の要望によって拡張されたが、大正12年の関東大震災で大半破壊したので、駒場に移転した。その伝統を受け継いだのが1981年(昭和56年)に発足した国立大学共同利用機関である宇宙科学研究所である。

 ・・・(筆者自身が、宇宙科学研究所の名誉教授であり、糸川英夫先生の最後の弟子であった、長友信人先生など多数の先生方に師事し、日本ロケット協会の会員として、その研究会である「宇宙旅行事業化研究フォーラム」の事務局長をおおせつかっている。宇宙三機関、四重工、航空三社などいろいろな分野の先生方と共に研究し、宇宙旅行に関する、数冊の報告書を出している)・・・

 1912年(大正元年)11月25日、日本航空協会の設立総会が行われ、評議員として参画し、その後統合した帝国飛行協会では13年間副会長に就任している。昭和15年戦時体制の大日本飛行協会に改組されると顧問として入っている。FAI(国際航空連盟)総会には代表として数回出席している。 

 ・・・(筆者自身が現在の(財)日本航空協会の研究分科会である、「航空宇宙輸送研究会」のメンバーとして、航空産業のインフラ基盤を使って宇宙旅行を産業とすべく、研究、提言をまとめているところである。この航空協会の文化・事業部長である酒井正子氏は田中館博士の研究家である。自身も東京大学の工学博士で祖孫弟子にあたり、この研究会の事務局メンバーで私と一緒に活動している。)・・・

 大正8年7月にはFAIに加盟をしており、国際航空会議では国際航空条約が成立し、国内でも、1921年(大正10年)4月航空法が制定された。日本は批准書を寄託し、大正11年国際航空条約の締結国となった。

 1928年(昭和3年)には航空事業に対する功績として、フランスから「グランオフヒシェ―・ド・ラ・レジトン・ドノ―ル勲章」を受章している。これは、フランスの文化勲章と言われているものである。1932年(昭和8年)年1月19日には皇室の御講書始めで天皇陛下に「航空機発達史の概要」について御前講和をしている。1936年(昭和11年)年にはついに、日本の飛行機が無着陸周回飛行で、世界最長記録を達成するまでになったのです。

 このように、我が国のFAI加盟と航空法規完備の影に田中館博士の存在がある。 航空機の設計はいうに及ばず、航空事業や、航空施設の充実にも欠くべからざる人物であり、このような活躍により、日本の航空・宇宙の育ての親といわれる所以である。

 博士は数多くの和歌を残しているがその中で、飛行機を詠んだ代表的な和歌を紹介する。

 「常路沢むべもと見けり名にしるきいものなりしてそらふねのとぶ」
  (日本最初の飛行場から芋のような飛行船が飛んだ)常路沢は所沢のこと。

 「富士の山あおぎ見ればあま雲のたゆるあたりに 飛行機の見ゆ」
  (富士山のそばを、飛行機の飛ぶようすが見られる)

 田中館博士の生い立ち

 2002年は博士が亡くなられて50年になる。これを機会に、生い立ちと足取りをたどってみたい。

 安政三年(1856年)9月18日、陸奥国二戸郡福岡(現岩手県二戸市)で出生、5歳の時から和漢の書、9歳のときから武芸を学んだ。長じて会輔社で学び、明治3年に盛岡に出て藩校修文所にて、後の総理大臣となる原敬と机を並べた。明治5年、16歳の時に向学の志を抱き東京に出て、慶応義塾、東京英語学校、東京開成学校と次々に入学し、特に英語の勉強をやった。明治12年に東京大学理学部に入学し、一生を決めることとなる先生たちと出会うことになる。物理の師はアメリカ人トーマス・メンデンホール教授で、学業が認められ2年生の時から助手として富士山頂の重力測定にも同行している。機械工学の師はスコットランド人ジェームズ・ユーイング教授であった。この二人の教えは、田中館博士に多大な影響を与えました。明治一五年、東京大学を卒業して直ちに準助教授となり、1年後には助教授となりました。明治22年(1888年)英国・スコットランドのグラスゴー大学に留学を命ぜられ渡欧、ユーイング博士の先生であるケルビン博士に師事する。ケルビン博士は世界的に有名な物理学者で、この先生から多くのものを学んだ。3年目にはドイツのベルリン大学に留学し、翌年帰国した。母校、帝国大学理科の物理学の教授として活躍し、多くの教え子を育てた。原子モデルで有名な長岡半太郎博士、磁石鋼で有名な本多光太郎博士、水沢緯度観測所の初代所長で、 Z項の発見者である木村栄博士、物理学者で随筆家でもある寺田寅彦博士などである。

 田中館 愛橘博士の活動と業績
  1. 地震の調査・研究 グラスゴー大学、ベルリン大学から7月に帰国した1891年(明治24年)、その10月28日マグネチュウド八の濃尾地震があり、死者7200人以上の大惨事となった。国と大学の命で現地調査した田中館博士は、この惨状に大変心を痛め、帰って震災予防対策を進言し、政府に於いて震災予防調査会が発足し、後に東京大学地震研究所の設立にも大きく貢献し、この地震の後、岐阜県本巣郡根尾村水鳥の根尾谷の近くで、のちに「根尾谷断層」とよばれるようになった大断層を発見した。地震によって地磁気が変動することを世界ではじめて証明した。 その後の世界各国の地震書の多くに、この根尾谷断層が載せられている。
  2. 磁気・重力・緯度の観測 明治27年(1894年)万国測地学協会の委員に任命され、日本が初めて、地磁気、重力、緯度変化等を国際的に共同研究することになった。 岩手県水沢市に緯度観測所が新設されたのも、また、門下生の木村 栄博士が「Z項」を発見したのも田中館博士の指導尽力によるものである。
  3. メートル法の普及活動 フランスは1790年に世界に先駆けてメートル法を制定し、その後1875年にメートル法国際条約が締結され19カ国が加入した。明治40年(1907年)万国度量衡会議のアジア代表常置委員に指名されてはじめてパリでの総会に出席した。以来九回も同会議に出席して世界の大勢を見極め、「日本国においてもメートル法を導入すべきだ」と各方面を説得し、大正10年に帝国議会において度量衡法改正法案(メートル法)が通過成立した。
  4. 日本式ローマ字の発案と普及活動 明治になって外国との交流が盛んになるに従い、日本語の発音を外国語に書き換えるためにローマ字が用いられるようになり、米国人の宣教師ヘボンが来日してから「ヘボン式ローマ字」が普及した。それに対して田中館博士は「日本式ローマ字」を1885年に発案して、田丸卓郎等と計り「日本ローマ字会」を結成して運動を拡大した。昭和12年には政府は、日本式ローマ字を基本としたローマ字綴りを公認して、これを使用するようにとの訓令を出した。1989年ISO(国際標準化機構)はローマ字の国際規格として日本式ローマ字を決めた。田中館博士が目指したのは、日本語の表記に一貫性をもたせることと国字をローマ字にすることで、日本語を国際的に広められるのではないかという意図があったと思われる。これは海外留学、何十回という海外への国際会議出席による異文化に揉まれた、切なる愛国心による発露であると思う。国際平和の眼目は日本語を媒体とした異文化理解であると見通していたのである。
  5. 国際連盟・知的協力委員会での活動 昭和2年(1927年)から昭和8年までの7年間この委員を勤め、毎年スイスのゼネバで開かれる委員会に出席した。世界から選ばれた12名の委員の中には、フランスのキュリー夫人やドイツのアインシュタイン博士、ギョーム博士がいた。1938年11月23日、ラジューム発見記念日に、発見者のキュリー夫人に敬意を表し、日本からラジオを通してフランス語で長文のメッセージを送っている。ちなみにラジュームを初めて日本に持ち帰って、私の母校である二戸市の福岡高校で実験をして見せました。
    田中館博士は、この知的協力委員会でノーベル賞受賞者を含む世界一流の科学者達と上手な外国語を駆使して、科学技術や「四界同胞主義」(世界の皆が兄弟のように仲良くすべきであるという考え)を論じ合った。第一次世界大戦で敗れたドイツを仲間外れにしようという動きを辞めさせたり、世界と日本でのメートル法の普及と統一の為に全力を尽くしたりしたのもその表れでした。また、アインシュタイン博士が来日した時には平和運動をいっしょにやっています。
  6. 貴族院議員としての活動 大正14年帝国学士院から推挙されて貴族院議員となり、昭和7年再選、昭和14年3選されて、戦後帝国議会が改組されるまでの22年間、日本の科学者の代表として、科学技術の発展、外国との交流ばかりでなく、日本の教育、文化の向上のために活躍された。万国議員会議にも日本代表として何回も出席している。1944年(昭和19年4月)文化勲章を受ける。
 田中館博士の"見通し"

 田中館博士についていろいろな方々が研究されておりそれらの書物、文献、資料を丹念に読んで、調べていくと、つまるところ博士の偉大さは、「先見性」と「若い人を育てる」にある。『巨人のあしあと 田中館愛橘博士逸話集』によると、いろいろな方々が博士の"考え方"や"見通し"について述べられている。

 *昭和17年の貴族院における演説で「マッチ箱一つぐらいのもので艦隊を全滅させるほど強力な新兵器の研究を物理学者は計算している」

*ライト兄弟などが竹の飛行機で、2メートル上がったとか50メーター飛んだだとか言っている時代から、航空機の国防や商業交通の将来の値打ちをはっきりとつかんで、日本の航空界の発達に尽くされた。日本は竹と絹の出来る国だから将来飛行機が発達するでしょうと言った人に、将来は金属の箱に入って飛ぶようになるよと笑って答えられ、明治天皇の午前講演ですでに、今日のジェット機のこと、それによって将来は成層圏航空が盛んになることを述べられたというし、ツェッぺリンの飛行船が日本にきたころ、陸軍も海軍も、飛行船の研究をしなければと言って騒いだそうだが、「あれは浮き袋をつけて泳いでいるのだから役に立たない」といって、振り返っても見られなかった。アメリカとイギリスの軍用飛行船が相次いで事故を起こし、やがて飛行船というものがほとんど姿を消してしまったのはその後まもなくのことである。先生の見通しははこのように、いつも一般の考え方から鮮やかに一時代に先立ち、しかも進むばかりでなく、進む限度についてもこの上なく正確であった。物理学にしろ、メートル法にしろ、ローマ字にしろ、飛行機にしろ先生の仕事は主に文化の礎の問題であって、花よりも根を養うことに目をつけられたのである。

 このように博士の"見通し"についての逸話は数え切れないほどある。この「文化の礎の問題」について、留学時代のグラスゴーは世界有数の大都市であり、その文化、文明のエネルギーは圧倒するものであったろうと想像にかたくない。陸奥国二戸郡福岡から盛岡へ、そして東京に出て、グラスゴーへと、カルチャーショックを受けながら……グラスゴー大学ケルビン研究室の大時計の前に立って、下宿先の坂の上に立って、そして郷土の折り爪岳、陣馬山、ふんどし町へとイメージをだぶらせながら、思いを馳せると、「世界の中の日本は」「日本人とは」「自分とは」と自問自答したに違いないと……

 そして、さらなる強い"志"と"気概"が増幅し、研究に励み、英国、スコットランドの気風、気分の中で"見通し"と"先見性"が醸成されていき、人柄、徳があいまって、さらに磨きがかかっていったと思う。異文化の中でいかに"もまれる"か……を教えてくれるのである。その過程で育まれた思想が「四界同胞主義」であろう。

 田中館博士と科学の精神

 現在の日本の政治、経済の混乱は情けない姿をさらけ出している。日本民族の劣等性を力説するわけではないが、深刻な反省を試みれば、その欠点は一口に言えば「科学的精神」の欠如ではないだろうか。直感的な事実のみに信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという日本民族の性向があるのではないか。推理力によって確実に認識できることに対してさえも、やって見なくては解らないと感ずるのがこの民族の癖である。この欠点は、一朝一夕にして成り立ったものではない。近世の初めに新しい科学が発展し始めて以来、欧米人は300年の歳月を費やして、この科学の精神を生活の隅々まで浸透させていった。しかるに日本民族は、この発展が始まった途端に国を閉じ、その後250年の間、国家の権力を持ってこの近世の精神の影響を遮断した。この250年間の科学の発展が世界史の上で未曾有のもであっただけに、深刻だったといえる。それらをグラスゴーやベルリンでの留学生活のなかで、いかに「科学の精神」が日常的に溶け込んでいるか、強く感じ入ったに違いない。田中館博士はこの発達の成果を、そして思想をいち早く身につけて、科学の精神を日本にもたらしたのである。それが、優秀な教え子、弟子を輩出させたことでもうなずけるのである。

 田中館博士と共に

 田中館愛橘記念科学館と田中館愛橘会が岩手県二戸市にあり、私の従兄である福勢隆氏(元小学校長)は博士の祖孫の松浦明氏から寄贈された膨大な資料の整理にあたっている。今回の資料は彼に負うところが多い。私も会員ではあるが、田中館愛橘会長であり、記念科学館の設立に甚大なる功績を残した丹野幸男氏とは田中館博士の縦横無尽の外国での活躍の足跡を訪ねようと、留学先であるグラスゴーを訪ね、大学のケルビン教授の研究室、銅像、田中館博士の下宿先を巡ったり、東大の機械工学の外国教授であったジェームズ・ユーイング教授の面影をエジンバラ大学に訪ねたりもした。また、トーマス・メンデンホール教授(大森貝塚の発見者モースの推薦で物理学担当の教授として来日)のゆかりの米国オハヨー州のオマハ大学も二人で訪ねた。 

 二戸市の福岡高校(私の母校で今の校長の相馬氏は同級生である、同窓会長は田中館愛橘会長の丹野幸男氏)は創立100周年を記念して、グラスゴーアカデミー校と、そして隣の九戸村(岩部茂村長)は中学生、高校生を村の主催としてスコットランドのドーラー・アカデミー校と毎年生徒たちに田中館博士の科学精神を少しでも受け継ごうと交換留学をやっている。コーデネイターは二戸市出身の上智大学教授の田中利見先生、私が旅行の担当をし、毎年、子供たちに同行している。これも、すべて田中館博士の縁である。

 今後は、私が20歳の時に米国と南米への遊学へと駆り立ててくれた感謝の気持ちを胸に秘め、航空・宇宙に関して、そして、私を魅了してやまない田中館愛橘博士の"見通し"と「四界同胞主義」の思想について研究を深めたいと思っている。

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財団法人国際平和協会
Japan Association for International Peace