目 次
巻頭言
ギニアで山師
となった私
齊藤清
北朝鮮の瀬戸際
外交に封じ手を
斎藤志郎
父親を偲ぶパラオ
鎮魂の旅
伴武澄
グローバル時代に
おける子供の教育
田中豊
日本人移民子弟
への日本語教育
潮厚宏
日本語教育と
ボランティア
藤田千尋
企業の社会貢献
第2回
伴武澄
航空技術の草分け
田中館愛橘
若松立行
賀川豊彦の世界2
編集後記
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日本語教育とボランティア
藤田千尋 フジセン社長
「生涯教育」というこの言葉は私の人生の目標のひとつである。欲張って言えば何か「世のため人のため」に役立つ仕事に取り組みたい。ボランティア活動を柱にした後半生。そのような気持ちで日々、情報収集していた昨年4月、日本経済新聞の連載コラム「ドキュメント挑戦−日本語教育の新世紀」に出合った。
これこそが探し求めていたフィールドだと感じた。
さっそく50の手習いである日本語教師資格獲得を目指す第一歩がスタートした。日本語教育講座一年コースの7月に申し込みをした。偶然にも機関紙『国際平和』復刊号に「21世紀宇宙への旅」を寄稿した若松氏から、来日中のスコットランドのドーラー・アカデミーで日本語を教える女性教師を紹介された。ミス・プールはケンブリッジ大学を卒業後、上智大学に留学し、日本文化に深い敬愛を持つようになった。
1980年代までのスコットランドは投資不足に悩んだ。大卒者でさえ就職先がなかった。そんな窮状を打破するため、アメリカや日本などに開発庁の支所をおき、積極的な海外企業に誘致策に乗り出した。スコットランドにおける日本語教育の必要性はそんなところにもあったが、日本語学習を通じて接する日本文化の奥行きは彼らに新鮮な刺激となった。異文化との交流によって新たな自分を見いだすこともある。そんな話を交わした。
これからの時代は世界の安定の平和のために市民レベルでの国際交流が内外を問わず重要になる。国際交流にとって一番大切なのは意思伝達の手段である。言語の持つ重要性を自然な流れの中で再認識する機会を得たことを、私は宿命的と受け止めている。
森本哲郎氏が著書『日本語 表と裏』(新潮文庫)の中で日本語について触れた一文を紹介したい。
「文ハ人ナリという。それと同じように、言葉ハ民族ナリといえる。民族の特質はすべてその民族の使う言葉のなかに集約されているからである。人間は何を考えるにも言葉で考える。思考とは言葉とともに始まるのだ。この意味でも『はじめに言葉ありき』という『聖書』の記述は至言といえよう。けれども、いうまでもなく言葉は民族によってちがう。だから日本人にとっては『はじめに日本語ありき』ということになる。そして、日本人は日本語で世界を理解し、日本語ですべてを考えるのである。とすれば、私たち日本人の慣用語のなかに私たち自身の姿があり、日本人の心性を、日本人の論理を、総じて日本の文化をかえりみることにほかならない」
長い引用になったが、森本氏の言葉に対する慧眼は素晴らしいと思う。日本語を普及させるということは日本の文化を世界の人々に広げる運動でもあるのだ。
では、大きな使命を有する日本語普及について具体的に考えたい。
海外で日本語を学ぶ人は約400万人に達するといわれる。6000ともいわれる世界の言語の中で、日本語の使用頻度は七番目なのだそうだ。一位は人口の多さから中国語、二位は英語なのだが、三位以下は、スペイン語、ロシア語、ヒンディー語、インドネシア語と続く。60億人の人口を抱える地球上で七位というのは予想外の「健闘」ではないかと驚いている。
それにはわけがある。一言語一民族の日本は全員が日本語を話すのに対して、人口が多くても中国やインドでは100以上の言語が使用されている。特異な例であるが、タイではタイ語のほかに中国語、クメール語、マレー語、ラオ語が公用語として使われているのだ。
いかに日本語が珍しいケースとして存在するかが分かる。例外的には、ブラジルやハワイにおいて移民の一世、二世などによって日用語として使われているケースがないわけではない。
このような日本語も日本語教育史の視点からみると、1549年にフランシスコ・ザビエルの来日により、イエズス会の方針で現地語すなわち日本語によるキリスト教の布教が始まった。スペインのイルマン・フェルナンデスが日本語教育を始めたのもこのころだ。その後、日本国内においては1606年、ジョアン・ロドリゲスによる日本語文法の集大成である「日本大文典」などへと発展を遂げる。海外では、帝政ロシア時代の1705年、ペテルブルグに日本語学校がつくられ、漂流民としてロシアにたどりついた伝兵衛という人物が最初の日本語教師となった。
しかし、日本語の本格普及は明治以降となる。
アジアからの留学生受け入れとしては、1876年の日朝修好条規締結の五年後に、福沢諭吉のもとに2人の韓国留学生が託されたのが最初だといわれている。海外では1891年、岡倉天心の弟である岡倉由四郎が京城日語学院で日本語教育を開始した。
日清戦争後の1895年の下関条約締結後は清国からの留学生が延べ1万人にも及んだ。清国からの留学生は日本語で書かれた西欧の文献に接し、帰国後大いに活躍した。政治や経済から科学にいたるまで現在使われる中国語の多くの単語は彼らによってそのまま日本語から中国語に入ったのである。
1980年代にマレーシアのマハティール首相が提唱した「ルック・イースト」ではないが、当時、中国や韓国だけでなく、アジアの知的階級の多くの子弟が日本に学び、日本語を通じて西欧の制度や概念を身に付けたということは歴然たる事実だといわざるをえない。100年前の「日本に学べ」は日露戦争での勝利でさらに加速した。
残念なことに自然発生的な日本ブームはたった10年で終わった。日本が北京政府に対して21カ条要求を突きつけたことが引き金となった。それでも、日本語教育は台湾や朝鮮半島、満州のみならず日本が国際連盟下で委任統治することになった南洋群島にまで広がり、戦前に日本語が通じた空間は東西南北約5000キロにおよんでいたことを付け加えておきたい。
国際交流基金が作成した資料によると、世界にある日本語教師団体の数は158。中央アジアや東欧、中東などで教員組織が新たに誕生していることが分かった。
「日本人が"本家"意識や"家元"意識を捨てて、日本語を国際的なコミュニケーション言語の一つととらえ直す意識改革が必要な時代に入っているのです」。日本語教育学会会長の西原鈴子女史はそう断言する。
日本には約八万人の留学生がいる。この留学生たちに対し、日本の大学の講義を受けられるだけの日本語力を身に付ける日本語教育が行われているのだが、このほかに日本に定住を始めた外国人の2万人の児童にも日本語の指導が必要をされている。実はこれらの児童の日本語学習も大きな問題なのだ。
まず教員の数を増やすため、ボランティアの教師が必要で、この件については大いに可能性がある。
私が現在、学んでいる日本語教師養成校では、二つの集団がある。一方は元学校の先生や元商社マン、メーカー駐在員など退職後に国際交流やボランティア活動を志向している中高年集団。片や、日本語教師を自分の職業をすることを目指すプロ志向型若者集団である。20代や30代の若者集団はお金にならないボランティアには不向きであろうが、私が属している中高年集団は生きがいを求めている。期待したいのはこの中高年の集団で、後は教える場があるかどうかという問題である。
最近のテレビ放映で、メキシコシティーの国立大学で日本語を学ぶ学生が「なぜ日本語を学ぶのか」という問いに「勉強しているとカッコイイんだ。21世紀のファッションさ」と答えている場面を見て、まさにわが意を得たりと心から嬉しくなった。
世界中のどこの国にも、あのデーブ・スペクターのような資質を持った若者が今、日本語を勉強しているのだ。われわれは今こそ各国で日本語を学んでいる若者たちに応えるではないか。歴史的に見て、日本の真の国内外における国際化は今始まったばかりなのである。それも外圧というプレッシャによって。
英語、スペイン語など植民地政策で広がった言語ではなく、日本文化と共に世界の人々に広がってほしい。それもこれも、日本語を伝えていく教師の数と質に帰する。ぜひ関係省庁の日本語教育に対する柔軟なインフラ整備をお願いしたい。
ソニー会長の出井伸之氏が、「連続」でなく「非連続の社会」という発想を提言している。二十一世紀は日本語普及という英語圏、スペイン語圏の国々から驚かれるブームを願っている。

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