目 次
巻頭言
ギニアで山師
となった私
齊藤清
北朝鮮の瀬戸際
外交に封じ手を
斎藤志郎
父親を偲ぶパラオ
鎮魂の旅
伴武澄
グローバル時代に
おける子供の教育
田中豊
日本人移民子弟
への日本語教育
潮厚宏
日本語教育と
ボランティア
藤田千尋
企業の社会貢献
第2回
伴武澄
航空技術の草分け
田中館愛橘
若松立行
賀川豊彦の世界2
編集後記
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日本人移民の子弟への日本語教育
国際平和協会評議員 潮 厚宏
まだ半世紀にはならないもののそれくらい大昔のころ、紅顔の美少年には程遠い16才になったばかりの悪ガキ時代に父の勤務の都合でアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに約4年間住み、良く遊び、そして学んだ中で強く印象として残っていることがあります。
毎日、ウィークデーは学校、帰宅後は宿題など嫌いな勉強ばかり。週末ともなるとその反動は大きく金曜日の夜から日曜日の夜遅くまで学友そして日系二世とよく遊んだものです。
そんな中、日系二世との意思疎通はこちらのへたくそなスペイン語と彼らのこれまたお粗末な日本語でした。時間と共にこちらが覚えるスペイン語の方が相手にも便利なのか、気が付くとお互いスペイン語を使っていました。
ある日、その中の一人のお母さんから子どもとなるべく日本語で接してほしいとお願いされたことがあります。一方少しでも早くスペイン語を覚えたい自分にとって難しい注文だなと思いながらも、その家に遊びに行った時は両親のいる前では相手が半分も解っていないだろうと思いながらも日本語で接していました。
しかし、彼らにとっては不便な日本語、無理なことは長くは続かず気が付くといつの間にいつもスペイン語になっていました。これはこちらのスペイン語を覚えたいと思う気持ちが自然とそうさせていたのではないかと思います。彼らにもこちらと同じく日本語を覚えようとする気持ちがあったらその結果はもう少し違ったものになっていたかも知れません。
当時、日本人の顔をして日本語を不得手としている彼らの姿を見ていて奇異にすら思えました。
その後、社会人となり40代半ばでブラジルはサンパウロに6年弱駐在しました。現地スタッフに日系二世が多く勤めていたことから彼らに接する機会も多く、その度にまた彼らへの日本語教育の遅れを感じざるを得ませんでした。彼らのみならずブラジル全土にわたる日系二世にいえる現象だったと思います。
この様子は私が経験したこれらの国だけでは決してないと思います。当時移民した日本人たちは日々の仕事に忙しく子供たちへの日本語教育まで手が行き届かなかったことは十分理解できるからです。
今は全世界の各首都に日本人駐在員の子弟の日本語教育を目的に日本政府機関による日本人小中学校が相当に充実した内容で存在しますが、これらの学校には現地の日系二世、三世たちの受け入れは行われていないのがほとんどではないでしょうか。
サンパウロ駐在の折り、同種学校のPTA会長を仰せ付かったことがありましたが、その時にも現地日系移民の方々から自分たちの子供にも入学させてもらえぬものかと多くの声がありましたが、出来ませんと答えたことを思い出します。
当時は民間ベ−スで日本語補習校などといった名で運営されていた機関も各都市にはありましたが、少し田舎に行くと皆無でした。田舎の子供たちはますます日本語教育を受ける機会に恵まれぬまま置き去りとなり大人になってしまうのです。
しかし、昨今は日本移住事業団などいろいろな機関を通じ、広く全世界に日本語教育が施されていることは周知のとおりです。その結果か最近多くの二世、三世いや四世くらいまでの日系人の日本への進出も多く、それぞれの職場で立派な日本語で仕事をされていると聞いています。
これからは都市中心の日本語教育から少しでも地方に住む日系人子弟に対する同教育が出来ないものか、模索してみたいと考えております。この活動を取り進めて行く上で多くの困難や覚悟は決して簡単なものではありません。
しかし本財団に席を置くこの良い機会に約10年の南米在住の経験を思い起こしつつ、以前より感心のあった彼らへの日本語教育に遅まきながら何か少しでも貢献らしきものが出来たらと考えている次第です。なお出来たら日本語に関心を持ち勉強したいと希望する外国人にも広く門戸を広げたいと考えております。
「言うは易しく行うは難し」の感大なり、一方「案ずるより産むが易し」の格言もあります。急がず力まずそして足を地にしっかりとつけたゴルフと同じ神髄で多くの良き協力者を得て前進して行きたいと考えております。

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