目 次
巻頭言
ギニアで山師
となった私
齊藤清
北朝鮮の瀬戸際
外交に封じ手を
斎藤志郎
父親を偲ぶパラオ
鎮魂の旅
伴武澄
グローバル時代に
おける子供の教育
田中豊
日本人移民子弟
への日本語教育
潮厚宏
日本語教育と
ボランティア
藤田千尋
企業の社会貢献
第2回
伴武澄
航空技術の草分け
田中館愛橘
若松立行
賀川豊彦の世界2
編集後記
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父親を偲ぶパラオ鎮魂の旅
共同通信社記者 伴 武澄
昨年5月末、パラオ南方のウルクタープルの島影に父の遺骨の一部を散骨してきた。パラオの松島ともいえそうなセブンティ・アイランドと日本人が「くじら島」と名付けた小島を望む海域である。
言葉で表現できないほどの美しい島々の世界は若き一海軍士官の思い出の地であり、苦楽を共にした同僚たちの眠る海でもあった。
父は第二次大戦を「過ぐる戦」と表現していた。世界最強の国家にアジア人が挑んだ唯一の戦争に対する自負があり、「侵略」とか「解放」だとかいった言葉で単純に言い表せない重い意味が父の体の中にあった。さむらいの子孫として、国家のために死ぬことに疑問はなかった。むしろ、そうした行為に崇高な意味があった。そんな時代に青春を過ごし、戦の後に次々と「思想転向」する時代に人生の過半を過ごした。
一昨年5月に父が死んでから書棚から見つけたのは南太平洋に関する数冊の本であった。パラオの話が父の口から出るごとに「お父さん、一緒に行きましょうよ」と何回か言ったことがある。その都度、返ってくるのは「まあやめておこう」。そんな意味の言葉だった。
父がパラオ行きを逡巡した理由は分からない。「飛行機の中から真っ青な南の海を見下ろすとその海に吸い込まれそうな気持ちになる」ということをよく話していた。父の心の中には死んでいった「英霊」たちへの思いがずっとあった。戦争体験のない者には触れることのできない感情なのだろうが、たぶん生き残った者としてその英霊たちに出会った時に返す鎮魂の言葉がなかったのだろう。
父がパラオに滞在したのは1944年2月から3月である。前の年の11月、日本の支配化にあった東の端のギルバート諸島のマキン、タワラがアメリカ軍に占領され、続いて2月、トラック諸島の守備隊が潰滅した。アメリカ軍の本格反攻が始まった時期である。連合艦隊の旗艦「愛宕」に搭乗していた。
思い出の記である「パラオ恋しや」に当時のパラオについて書いている。
「司令長官(後の"栗田艦隊"の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の演奏が始まるのです。勇ましい軍歌ではありません、荘重なクラシックなのです。マキン、タワラが玉砕し、トラックがあれほどの打撃を受ける状況下に、海軍では第二艦隊の旗艦愛宕にまだ軍楽隊を乗せていたのです。毎日のように軍楽隊の演奏のもとで食事をとる風景、みなさん想像ができますか。私のように音楽の素養のないものでも優雅な気分にだけはなったものですよ。在りし日の海軍、その威容を語る懐かしの風景でありました」
大方の戦記と違って、父の描く当時の連合艦隊にはまだ「余裕」があった。こんなことも書き遺している。
「休みの日がこれまた傑作、パラオで一番大きいコロール島の山登りが楽しみでした。余分におにぎりを作ってもらって、"お腰にさげて"という気分で出かける。パラオの子供たちがぞろぞろついてくる。まるでパイド・パイパー、日本流だと桃太郎の絵図です」
戦争というものは毎日、ドンパチしているのではない。
「やがて太平洋戦争の天王山、空前絶後の大海戦の舞台になる海域にありながら、私はいかにも平和なパラオの雰囲気の中で、副官事務と庶務主任の仕事に精出していたのであります。戦争というのは、戦国時代にあっても大名たちが毎日戦闘していたわけではないんですね。インターバルがある。その間に何年もの『平和の時』が入っていることさえ珍しくはなかったはずです」
「日本の歴史でも世界の歴史でも、小説家が描くものに影響され、戦争と言えば戦いの連続のように思いがちですが、現実の戦争はそういうものではありますまい。国民全部が戦争をひしひしと身近に感じた大東亜戦争末期の主要都市無差別爆撃は、半年近く切れ目無く続きましたが、あれはもう、勝負が決まって止めを刺す行動の時期だったと見るべきではないでしょうか」
父が実戦を体験するのはその3カ月後の1944年6月の「マリアナ沖海戦」である。帝国海軍の機動部隊が数時間で完膚なきまでにたたきつぶされた海戦である。本土への空爆を可能にするマリアナ諸島のサイパンがアメリカの手に渡り、9月にはパラオのペリュリュー島への攻撃が始まり、守備隊1万2000人が玉砕する。
父親への鎮魂の旅の結論はない。南国の楽園で夢想するのは「戦闘の凄まじさ」であるが、一方で「武の喪失」についても考えざるを得なかった。
5月25日、くたびれた単発のパイパー機でペリュリュー島に向かった。パラオのコロール島の日本人古老といってもいい倉田洋二さんに「ぜひ」とすすめられた。ここまで来て太平洋戦争の激戦の地を見ないわけにはいかなかった。
コロール空港を飛び立って40分後、ペリュリューの島影が見え、南部にある滑走路に降り立った。客は筆者と母の二人きりである。滑走路には背筋をピンと伸ばし海軍帽をかぶった日本人が迎えてくれた。中川束さんである。前夜、倉田さんが電話をしてくれていたようだった。
中川さんは、奈良県で経営していた建設会社をたたんで10年程前に住民500人ほどのこの島にやってきた。1932年、3歳のとき父母に連れられてパラオ島に移住した開拓農民の一人だった。若くして航空隊に志願したが、戦地に赴く前に終戦となった。玉砕した1万2000人が遺骨収集もままならず眠るこの地を、養子にした島の息子と二人で守っている。
ペリュリュー島には二つの滑走路が交差している。東西1500メートル、南北1800メートル。開戦前夜に建設された当時としては南太平洋最大の飛行場だった。東のトラック島、そして開戦直後に陥落させたニューギニア東のニューブリテン島にあるラバウルを結ぶ航空基地としての位置付けがなされた。
余談だが、当時の国際社会は、日本が国際連盟を脱退した後も日本が南洋群島を委任統治することについてちゃんと認めていた。委任統治領に軍事施設を建設するのは御法度だったため、一応「パラオ第三農場」という名目で建設工事が始まった。飛行場建設では沖縄から多くの働き手がやってきた。パラオ在住日本人に沖縄の人が多かった理由の一つでもある。
パラオは地理的にフィリピンの東に位置する。ペリュリュー島の上陸作戦はマッカーサー率いるアメリカ軍によるレイテ島上陸作戦のための航空支援基地確保が目的だった。ニミッツ提督率いる米太平洋艦隊は6月、すでにマリアナ海戦で勝利し、南太平洋における日本の機動部隊を潰滅させ、日本本土上陸作戦のための航空基地をテニアン島に確保していたが、マッカーサーはフィリピン奪還のためにペリュリュー島を欲しがった。
1944年9月15日、そのニミッツ提督指揮下の米軍は400隻の艦船と17万発の爆弾で総攻撃を浴びせた。第81歩兵師団を中心とした米軍2万8000人が南東部のオレンジビーチに殺到した。迎える守備兵は中川州男大佐率いる陸軍第14師団歩兵第2連隊を軸とした1万2000人。
物量に勝るアメリカは数日でペリュリュー島を占領する考えだったが、結果的に2カ月の月日と1万人を超える尊い犠牲を払うこととなった。中川連隊長は兵力だけで二倍以上の米軍と対峙するに当たって、海岸線での戦闘を避け、米軍が上陸した後に大規模反攻を試みた。1日でも長く米軍をペリュリューに引き付けることでレイテでの戦いを有利に導こうとしたのだった。
3日間に及ぶ艦砲射撃でペリュリュー島の海岸線のジャングルは丸裸になった。しかし、日本軍は500を超える人工、天然の洞窟陣地に立てこもった。洞窟内には数十門の大砲が据えつけられ、アメリカの上陸部隊にかつてない被害をもたらした。上陸地点のオレンジビーチはアメリカ軍兵士の血で赤く染まったという。
ペリュリュー島には砲撃で潰滅した旧海軍指令部跡、ゼロ戦や米軍機の残骸、焼けただれた戦車などが随所に放置されてある。さながらジャングルの中の戦闘博物館である。中川さんは「戦跡は探せばまだいくらでもあるはずだが、一人で探すのは体力的無理」と嘆く。
中川さんの説明を聞きながら、戦跡を歩くことは戦争体験そのものである。灼熱の太陽が照りつけ、汗がとどめなく流れるのだが、58年前の兵士のことを思えば「暑い」とはいえない。戦争を意味のないことだと語るのは容易である。戦争反対のトキを上げるのも簡単だ。しかし、現実に戦いは21世紀になってもなくなったわけではない。そんな国のために戦う行為が崇高でなくては死んだ兵士はたまらない。
戦後、生き残った人たちには、戦地で死んでいった仲間に対するある種の負い目があった。父もそのことをよく口にした。ある意味では「いいやつ」が先に死ぬのが戦争なのかもしれない。ジャングルの中で熱い思いにかられながら、ふと「人柱」という古い言葉を思い起こした。こういうところで死んでいった兵士たちが戦後日本の人柱になっていると考えることは感傷でもなんでもない。
中川洲男連隊長は11月22日、パラオに向けて「サクラ、サクラ」を打電し、玉砕した。戦闘が終わって、上陸部隊の第323連隊のワトソン大佐は岩山をくり貫いた日本軍の指令部を訪れ、中川大佐以下、日本軍将兵の割腹した姿を発見した。
ワトソン大佐は、直立不動、敬礼した。中川大佐の戦いぶりに最大級の敬意を表したのだった。ワトソン大佐もまた武人であったといわざるをえない。日本は鬼畜米英と戦ったのではない。武人同士の壮絶な戦いの場を訪ね、今思い出しても鳥肌の立つ思いがする。
そんな話がいまもペリュリュー島に伝わる。
この戦いは、後にニミッツ提督をして「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」といわしめた戦いであった。
つまり、ペリュリュー島を占領する前の10月15日、アメリカ軍はレイテ上陸作戦を完了していたから、一万を超えるアメリカ軍の犠牲は太平洋戦争の大局になんら貢献しなかったことになる。ニミッツ提督の嘆きはいわれのないことではない。
そして、そのニミッツ提督がペリュリュー島に残した石碑がある。
諸国から訪ねる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
米太平洋艦隊指令長官 C・W・ニミッツ
ニミッツ提督は生涯、日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥に私淑していたと伝えられる。戦後、横須賀にあった戦艦「三笠」保存のために私財を献じたことも知られる。ニミッツ提督もまた武人であった。(ばん・たけずみ)

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