国際平和 Quest for International Peace  Spring 2003


目 次

巻頭言

ギニアで山師
となった私
齊藤清

北朝鮮の瀬戸際
外交に封じ手を
斎藤志郎

父親を偲ぶパラオ
鎮魂の旅
伴武澄

グローバル時代に
おける子供の教育
田中豊

日本人移民子弟
への日本語教育
潮厚宏

日本語教育と
ボランティア
藤田千尋

企業の社会貢献
第2回
伴武澄

航空技術の草分け
田中館愛橘
若松立行

賀川豊彦の世界2

編集後記


 ギニアで山師になった私

                 齊藤 清 (セオギ代表)

 マングローブの風

 熱帯の湿った匂いが鼻をくすぐる。マングローブの森をすり抜けてきた風が頬をなでる。1973年12月、西アフリカ・ギニアのベシア空港。沈みかけた太陽が、平板で生気のない空をぼやけた茜色に染めている。空港のくすんだ建物は薄暗闇の中に溶け込み、か弱い灯りがまばらに見えるだけ。故郷の夜汽車の駅だって、もっと明るかったはずだ。覚悟していたとはいえ、不安はつのる。

 それにしても長い旅だった。まだ成田空港ができる前の、しかもロシア上空の通過ができない冷戦の時代で、エールフランス機は羽田国際空港からまずアンカレッジへ向かい、給油の後、北極の上空を通過してフランスへ。そこで飛行機を乗り換えてギニアまで。これだけの行程でも、初めて海外への旅をする身にとってはなかなかに大変なもの。当時のパリは、これもまだシャルル・ドゴール空港が完成する前で、乗っていた飛行機はパリのオルリー南空港へ降りることになっていた。ところがその朝は、空港周辺に霧が立ち込めていて着陸できず、南フランスのマルセイユ空港まで飛んで、ここでパリの霧が晴れるのを待つことになった。東京から20時間を超える、とにかく長時間の飛行の後なのに、狭い座席に縛り付けられたまま、マルセイユ空港の看板をはるか窓越しに眺めるだけの姿勢で待機させられ、さらには、尽きた食料の補給はなく、水とキャンディーが配られるだけのひもじい時間が延々と続いた。飛行機がパリに戻り、やっと解放されてホテルに着いたのは、夜もかなり遅い時刻だったように記憶している。

 そして翌日、現在は軍用として使われているフランスのル・ブルジェ空港をアフリカに向けて飛び立った。しばらくしてジブラルタル海峡の上空を通過。それからずっと、眼下にはサハラ沙漠だけが続いていた。そして、海に出会い、陸にまばらな木立が見える頃、機は夕暮れのギニアへ到着。

 ギニア縦断鉄道計画

 その夜は、鉄パイプに帆布を張った簡易ベッドで落ち着かない時間を過ごす。宿舎の朝食は、歯ぐきから血がにじむほどに固いフランスパン。それでも、食糧事情の悪さから、特別に配給を受けた小麦粉を、パン屋に持ち込んで焼いてもらっていると聞かされれば、不平を言えるはずもない。

 1958年、「縛られた状態での豊かさより、貧しくとも自由であることを望む」と宣言してギニアはフランスから独立。それから15年を経過した1973年、独立当初の夢と熱狂はすっかり覚め、庶民の飢えは、指導者の思惑をはるかに超えるものとなっていた。そのうえ、政府を批判すれば誰かに密告されて投獄されるかもしれない、という重苦しい空気がギニア全土を覆う時代であった。呼吸をすること以外、すべて許可を受けなければならないほどの「不自由」な国。

 そのような国内状況の中で、国家プロジェクトとしての「ギニア縦断鉄道計画」の測量調査が始まった。内陸のボーキサイト原石と鉄鉱石を、首都の港まで運ぶための総延長800キロの鉄道。建設コストを低く抑えるため、線路は最短コースを貫くという基本方針があって、人里を遠く離れた、象の住む山の中にまで、地元の猟師を護衛にして測量調査隊が入った。

 山の清流沿いにテントを張り、川の水を飲み、ドラム缶で風呂をたて、穴を掘り草で囲って便所を作り、時には川魚を釣っておかずの足しにし、そして眠った。猟師が仕留めた鹿の肉を、ハゲワシと分けあったこともある。

 山の夜の訪問者

 新月の夜。テントの布地を隔てた向こうに、荒い息遣いをする生き物の気配を感じて目を覚ます。小さな動物ではない。それがライオンではないことを願いつつ――息を潜める。犬はいないはずだし、あるいはイボイノシシか。森の精霊かもしれない。静かな山を少し荒らしてしまったから、脅かされても仕方がない。隣のテントに声をかけることはためらわれ、ただじっとして、耳を澄ます。動きが取れないままに、テントの中の闇に向かって目を見開く。それから――そのうちにテントの外が白んできて、お客の姿は消えていた。

 もっと小さな闖入者に、しかしひどい目にあわされたこともある。まだ、それほどには夜が更けていない時刻。すぐ近くに張られた現地雇いの人夫たちのテントから、絞り出すような悲鳴。続いて、別の男の助けを求める声。戯れている様子ではない。しかし、気後れがしてテントを出る気にはなれない。それでも、名前を呼ばれて、「懐中電灯」という単語が耳に届いたときには、テントのジッパーを開けて首を突き出し、光の束を騒がしい方向に向けて「どうしたのか」と問いかけ――ようとした途端、首筋に痛みが走った。サンダルを引っ掛けて外へ一歩踏み出したその足にも、鈍い衝撃。反射的に右手で首筋を払い、左手で足元に光を投げかける。てらてらと光る飴色の大きな蟻たちが、ふくらはぎにまで這い上がり、サンダルは、テント周辺に展開した兵隊蟻の群れの中に溺れている。振り返ってテントを照らせば、布地の表面は蟻に征服され尽くしている。キャンプ地一帯は、兵隊蟻の大群の奇襲を受けて完全に制圧され、全面が飴色のカバーで覆われた状態にあった。それはおそらく、山への侵入者に対する警告。――雨季が近づいた、いくぶん蒸し暑い夜のこと。

 村の夜の訪問者

 山を抜け出て、地方の村の藁葺きの家を借りたことがあった。どろ壁の、簡素な木のドアが一枚あるだけの、きのこ型の家。窓はない。土間の広さは二十畳くらいあった。家の中で火を使っていたためか、天井の木組みはじっくりと燻されて、薄暗闇に溶け込んでいる。日中でも、人の表情が読めない程度の明るさ。夜ともなれば、目をあけていても、見えるものは皆無だった。

 乾季も末の頃、この村の近くの水場には小さな水溜りが残っているだけで、細い川の流れは途切れていた。ここで泥水を汲んで、炊事をし、ドラム缶風呂を沸かす。炊事用の水はフィルターで濾すことにしていたから、それほどの問題はないものの、風呂では、火の勢いが強くなるとメダカが光る腹を見せて浮かび上がった。ほこりを落とし、汗を流すことが優先される場所では、これはまったくの邪魔者で、掬い取って捨てるしかない。――もっと大きな魚であったら食べられるけれど。

 山の夜の闇のささやきと、清涼な生活環境は良かった。細い山道は何本かあったものの、人の歩く姿を見かけたことはなかった。太い蛇がいた。鹿も蟻もいた。象の足跡は、乾いた泥の中にいくつも残っていて――キャンバスベッドの寝袋で、前のキャンプ地を思い返しながらうつらうつらしていたその時、右耳に激しい風が吹きつけた。枕もとの懐中電灯に手を伸ばしたものの、すぐにはつかめず、手探りしている間に、第二波の風。今度は低いうなり声を伴っていて、その方向を手でさえぎれば、すれ違いざまに、ぬめりのある感触が顔面に伝わってくる。牛が、牛が顔を舐めた。

 大声を出しても牛はあわてず、家の中を一瞥する仕草をした後で、悠然と木のドアをくぐって姿を消した。土間には月明かりが射し込んでいる。そしてすぐに、その光に影が射して、若い娘が二人。笑っているようにも思えたけれど、暗すぎてさだかではなかった。灯油ランプに火を入れて、「牛に顔を舐められた」と、身振りで示したものの、伝わっているのかどうか。さらに、「もう寝ている」と表現して見せても、立ち去る様子はまったくない。折りたたみ椅子をベッドのそばに寄せて、病人を見舞う客のように、男の寝巻き姿を真顔で覗き込んでいる。月明かりを背に、ずいぶんと長い時間滞在してから、所在無さそうに帰っていった。

 これは「夜這い」とでも呼ぶべきものだったのか。村の慣習だったのかもしれないし、あるいは、礼を失してしまったのかもしれないと、今でも思うことがある。もっとも、牛と若い娘二人が一緒の夜の訪問では、若すぎた男にとっては荷が勝ちすぎていた。

 ギニア再び

 ギニアの初代大統領セク・トゥーレが1984年に病死。そのすぐ後に軍のクーデタが成功して、現在の政権が成立。そこで、国内が安定した頃合を見計らって、1987年12月、十数年ぶりのギニア訪問を実行した。旅好きの日本人を募っての、一行12人による2週間の団体旅行であった。

 この頃は、東京のギニア大使館の支援を得て、ギニアで昔から飲まれている天然のお茶「ケンケレバ」(登録商標)を、日本の市場で細々と販売していた。ギニアのほぼ全土で自然に育っている灌木ケンケレバの葉を輸入し、日本人向けに健康茶として製品化したものだった。ケンケレバは、植民地時代以降、フランスでは薬用植物として認知されていた。日本茶よりもずっと豊富なカテキンを含み、白いカップに透き通った夕映えの色を映し出す、紅茶風の飲み物。――けっこうおいしいお茶だったのだけれど、日本人にはまだアフリカが遠すぎたらしい。情報の不足と偏見から、アフリカはすべからく怖い場所であり、そんな土地で採れたものを口に入れたりしたら、とんでもない結果が待っている、と頑なに信じこんでいる人が多かった。季節が早すぎたのかもしれない。売れ行きはよくなかった。

 けれどもギニア側は、「ケンケレバ」の普及努力に対する感謝、という形で報いてくれた。旅のすべてはギニア外務省がお膳立てをした。ギニア国営ラジオの記者が同行、訪問先の県知事が応対し、行く先々の状況はラジオで随時レポートされる、という仰々しいものではあった。参加者の言葉によれば、「国賓並み待遇」。結果として、圧政で疲弊しきった国の人々が、新しい大統領に託した希望の絵を垣間見る旅となった。そしてこの旅が、わたしの「ギニア狂い」に再び火をつける火打石となってしまった。

 地図のない黄金の国

 それから2年後、「山師」として、ギニアでの活動を開始。国策企業に続く免許番号9番の鉱業権を得て金鉱山開発に携わることになった。東京の山の手線内の面積の数倍はある400平方キロの鉱区。なだらかな丘の続く、まばらな木々に覆われた大地である。鉱区のはずれを、50キロほど下流で大ニジェール川と合流するフィエ川が流れている。雨季には青草が生い茂り、乾季には、熱風が草木をいたぶる典型的なサバンナ気候の土地。

 まずは現地の正確な地図探しから始まった。日本政府の無償援助によるギニア全土の地図作成プロジェクトが、1980年代、日本企業の手で実施された事を知っていたから、現地の地理院を訪ねた。しかし、全土の航空写真撮影が済んでその一部は地図化されたものの、すべてが完成する前にプロジェクトは打ち切られ、現地で保管されていたはずの航空写真のネガもすべて散逸してしまっていた。数年間にわたる作業の結果は、残念ながら、ごく一部の関係者の記憶の中に残っている映像だけであった。

 そこで、宗主国であったフランスが1940年代に撮影した航空写真と、その成果である二十万分の一の国土地図を入手し、それに資源衛星からの最新情報を加味して鉱区の基本図とした。

 ウサギ小屋での仮住まい

 村の集落から少し離れた丘の上の宿舎が立ち上がるまで、ギニア人スタッフも含めて、村に家を借りることになった。村で一番立派なトタン屋根の四角い建物には、のぞき窓ともいえる――猫だったら通り抜けられる程度の木造りの小さな蓋のついた部屋が、三部屋あった。蓋を開けると部屋の中がいくらか明るくなる。案内されたその時、土間にうずくまっていた白い塊たちが、外からの光に照らし出されて動くのに気がついた。それは闇の中にいた、なぜかウサギたち。

 日本では、「ウサギ小屋」という言葉が、本来の意味とは別に、狭い窮屈な住宅を意味していた時代だったけれど、仮の住まいとはいえ、実際にウサギが住んでいた部屋に寝起きすることになるとは、あまりにも皮肉なことではあった。むろん、これは村長の好意であり、拒否するわけにはいかない。

 疲れ果てて昼寝をしようにも、トタン屋根は容赦なく部屋の温度を上昇させてくれる。夜になっても、昼の間に十分な熱を吸収したどろの壁が、保温効果たっぷりに寝苦しさを演出する。舞い狂う蚊の大群と、流れる汗と、ウサギの糞の残り香と。

 食事は戸外のテーブル。しかし、村の子供たちが群れて覗き込む。箸を運ぶ姿に掛け声がかかる。風が乾季の砂塵を連れてくる。蝿も黙ってはいない。ともあれ、朝から晩まで――いや、次の朝まで、穏やかな時間は存在しなかった。

 それでも村人は、いつもあたたかく迎えてくれていた。貧しい生活ながらも、表情に暗さがない。いつも和らいだ笑顔。とくに子供の笑顔の屈託のなさは、日本ではとうの昔に忘れられてしまった古典的な笑顔だった。

 金の採掘開始

 そのようにして、フィエ川の氾濫源を見渡す丘に宿舎が完成し、深さ70メートルの井戸を掘り――ついでに、村にも同じ深さの井戸を手押しポンプをつけて2本贈呈し、発電機を据え付けて、仕事を始めるための生活環境は整った。1994年、乾季もだいぶ進んでいた。

 大型の土木機械や、カナダから送り込んだ金選別装置やらをフィエ川の氾濫源に配置した。そして、数年をかけて調査と採掘準備を進めてきた堆積鉱床での金採掘は始まった。露天掘りの、それほど難しい技術を必要としない作業。単純ともいえる。金の市場価格と、生産コストとの睨み合いが、事業としての最大の関心事であった。

 この時期、各国の――ことにアングロサクソンの鉱山会社がギニアの金鉱を求めて、高地ギニアの原野にとめどなく参入してきていた。ギニア鉱山省が発行した金鉱調査のための免許番号は100番を突破した。すでに空いている土地がなくなっていたらしい。金の可能性はない、と推察される場所にまで調査グループが入った。その頃の金の市場価格は、2003年のちょうど今くらいの高値で推移していた。金掘り業者に優しい季節――その後急落して、長い冬の時代が続いたけれど――だった。

 わたしの鉱区にも、米国の大手会社が提携を求めてきた。まだ調査の済んでいない部分の、初生鉱床の埋蔵量を確認する作業を彼らと共に進めた。村の古老は、村人の立ち入りはタブーとなっていた昔の金採掘跡を、いくつも教えてくれた。そのおかげもあって、調査は効率よく進み、大きな埋蔵量が見込まれるポイントがいくつか確認された。国際的に通用する規模の鉱床であった。

 それから金業界の風の向きが変わり、つい最近まで、ひと吹きされただけでも凍りつくような過酷な風が吹き荒れていた。わたし自身も、凍てつく風に翻弄されるままに、楽ではない長い時間をギニアの大地で過ごしてしまった。――多くの人に迷惑をかけながら。

 まだまだギニア

 この間、ギニアの日本大使館に協力し、「草の根無償資金援助」の一環として、手弁当で、地方の村の小学校や診療所を十件以上建設したりもした。村人の喜ぶ顔に、面倒な苦労も十分に癒された。

 地方に住む大部分の人々は、現在でも1973年の頃のままに貧しいけれど、首都では一部にとびっきり羽振りのいい人種も現われてきている。この国のいびつな豊かさと貧しさを拡大させながら、19年目を迎えた現政権。金属疲労はかなり進み、異臭も漂う。しかし、多くの国民は、昔からの優しい心を変わることなく紡ぎ続けている。

 そんな中で、若い日の夢であった「ギニア縦断鉄道計画」の青写真は、30年の時間を経過した今、国際的な大手資源会社の手で実現される段取りが固まった。

 わたしが恋してしまったギニアの30年。まだ幕が降ろせないでいる。


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