目 次
復刊の辞
新たな展開をみせる
北東アジア
斎藤志郎
アメリカで鉄鋼会社
を経営して
田中 豊
民間大使として
赴任したガーナ
浅井和子
タゴールと岡倉天心
から100年
P.B.シャーカー
スコットランドに
学ぶ地域活性化
山本直美
宇宙旅行の
カウントダウン
若松立行
「賀川豊彦の遺産」
「フィランソロピー考」
−大原孫三郎
伴 武澄
編集後記
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スコットランドの経済開発と日本
国際スコットランド開発庁
プロジェクト・マネージャー山本直美
序章
1970年代から80年代にかけてスコットランドは英国の失敗そのものであった。産業革命が始まったグラスゴーには失業者があふれ、"ヨーロッパ最悪のスラム"とまで言われた。79年に誕生したサッチャー政権は、自由競争経済導入の掛け声のもと、スコットランドの基幹産業であった炭坑、造船所、鉄鋼所を閉鎖し、80年代には失業率が15%を超えた。犯罪率も高く、一時グラスゴーは危険都市の代名詞となった。日本でも大成功を収めた映画"トレイン・スポッティング"を覚えてらっしゃる方も少なくないであろう。
現在、スコットランドの人口5,114,600人(2000年)、失業率2001年度平均5.9%。人口では北海道にも満たない単なる小国である。だがスコットランドには日本政府高官やジャーナリストが毎月のように訪れる。一体この十数年の間に何が起こったのか。
1990年スコットランド開発公社(Scottish Enterprise 以後SE) が設置された。スコットランドの経済開発、産業新興を目的として、様々な経済振興策を打ち出し、実行したのが同組織である。そして1999年300年ぶりにスコットランド議会が復活した。
経済開発
昨今"産業クラスター"は流行語である。これを知らない人間ではないとまで言われそうな今日この頃である。が、実際は一体それが何かと言うことを良く知らない人は多い。産業クラスターとは、「特定分野における関連企業、専門性の高い供給業者、サービス提供者、関連業界に属する企業、関連機関(大学、企画団体、業界団体など)が地理的に集中し、競争しつつ同時に協力している状態」を指す。
産業クラスターは、競争優位を有する産業を中心に、地域資源や技術力、専門人材を集積し、新たな産業の創造を目指す地域経済産業政策として、近年世界各国で採用されている。その成長度が一国や地域の経済・産業の競争力を左右する条件になりつつあるとまでいわれている。現在多くのクラスターが産まれているが、その中には、地域主導で政策的に形成されたクラスターもあれば、諸条件が偶然整って形成されたものもある。スコットランドは明らかに前者である。政府の政策無しには現在の産業クラスターは存在し得なかったであろう。
国内産業の育成
クラスター戦略において、競争優位を有する産業の特定がまず第1歩である。スコットランドでまず特定された産業がバイオテクノジーとマイクロエレクトロニクスである。ここはバイオテクノロジーを中心に述べていくが、のちに簡単にマイクロエレクトロニクスにも触れる。
バイオテクノロジー
1997年2月、一匹の何の変哲もない羊が世界中の新聞の表紙をかざった。世界初のクローン羊、ドリーである
。スコットランドのロスリン研究所とPPL社とで行われたこの世界初の哺乳類のクローニングは全世界を震撼させた。この成功はその後のバイオテクノロジーの方向性を決めたといっても過言ではないだろう。
スコットランドは歴史的にバイオテクノロジー分野における研究が盛んであった。1850年のJames
Young Simpsonによる麻酔の導入、1920年John MacLeodインシュリンによるノーベル賞受賞、1929
年のSir Alexander Flemingによるペニシリンの発見、1957年のAlick Isaacsによるインターフェロンの発見など、歴史にのこる数々の発見はすべてスコットランドで起こった。つまり研究ベースで圧倒的に優位だったのである。ところがその商業化においてはまるで素人であった。発見は全てスコットランドでその成果を得たのは他国だったのである。
SEはそこでまず、研究開発の商業化の戦略を組んだ。大学からのスピン・オフ企業の設立、海外からの研究に対する投資そして企業誘致がその3本柱である。
1.研究の商業化;Commercialisation
日本で始めて大学教授がベンチャー企業を立ち上げたのは1999年も押し迫った頃である。つい最近まで大学研究者がビジネスを行うことは神をも恐れぬ卑しいことだった。
英国の大学はすべて国立である。学費も殆ど無料であったイギリスでは国からの補助金だけが大学の収入源であった。79年のサッチャー政権誕生と共に始まった大学の補助金削減と研究評価制度
導入の影響で、80年代半ば以降数年間、英国の多くの大学はまさに生死の境をさまよったのである。唯一の生き残り策が民間資金の導入つまり、研究の商業化であったのである。
まずSEはその環境の整備を行った。1990年にはクラスター戦略を核に産業開発プランがたてられ、サイエンスパークの建設を含むインフラの整備、TLOの設立、国庫やベンチャーキャピタルからの資金の提供や調達、トレーニングを含む人材の確保などを行った。大学TLOは率先して企業からの研究に対する出資、高度で革新的なテクノロジー、アイディアをもった教授/研究者による派生企業の設立を奨励・援助した。そこで誕生したのがロスリン研究所であり、PPL社なのである。
2.国際化
次に国際化である。私達、スコットランド国際開発庁(Scottish Development
International、以降SDI)の出番である。商業化や資本の導入といった場合、スコットランドにとって、国内企業などはじめから念頭にない。世界的国際企業・海外企業がそのターゲットである。その国際化を一手に担うのがSEの国際戦略/オペレーション担当機関であるSDIである。スコットランド産業や研究、技術のPR・マーケティング、使節団の派遣等を行い、企業や資本を誘致するのである。私達はスコットランドを売るセールスマンなのである。
現在では日本企業を含む世界中の企業がその高度な大学における研究成果に注目し次々と研究に出資、あるいは研究所の設立をおこなっている。一方で今やスコットランドの大学教授や研究者が派生企業を設立するのは当たり前となり、その派生企業がヨーロッパで一位のベンチャーキャピタルを獲得するまでになった。研究の商業化に見事に成功したのである。
スコットランドの優位性を世界に印象づけてくれたクローン羊のドリーも今や引退、穏やかな老後生活を送っている。スコットランドのバイオテクノロジー・クラスターはドリー無しに歩んでいけるようになったのである。
しかし、ばら色の人生などどこにもあるわけはなく、当然つまずきもあった。
マイクロエレクトロニクス−シリコングレン
グラスゴーとエジンバラのちょうど中間に位置するリビングストンにシリコングレン
の構築が始まったのは60年代後半であった。ヨーロッパでは比較的安価であった労働力を武器に当時まだ始まったばかりの半導体製造産業の誘致を積極的に行い、30年後には欧州の主要ブランドPCの33%、ワークステーション80%、半導体の15%が生産されるまでとなった。半導体産業は80、90年代にはまさに花形産業であったのである。しかし、半導体チップの寿命は短く、その価格は市場需要、為替相場に大きく左右される。一昨年からの半導体不況は産業構造を大きく変え,多くの企業が産業からの撤退を決めた。スコットランドに進出していた日本企業の撤退も続いた。そこでスコットランドはこの半導体産業のを大きく転換させる戦略に出たのである。ハードからソフト、つまり製造から知的財産への変換である。半導体設計はコストもかかる上に知的所有権(IP)がからむためその売買は困難であった。しかし、競争の激しい半導体産業の中においては常に新しい設計を短時間で生み出すことが必須となり、そのために法的に問題なくIPを売買できる場所が必要となった。そこで前述のマイケル・ポーター教授の提言によりVCX(Virtual
Component Exchange)が設立された。ここではネット上で半導体チップのIPが売買できるのである。大当たりであった。今やスコットランドは半導体製造ではなく、設計・開発の中心地となりつつあるのである。
FUTURE
当然のことながら私達にも多くの課題はのこっている。中国は勿論のことヨーロッパの新興国である東ヨーロッパ諸国と労働力単価で勝てるわけはなく、今後Greenfield
Investment をスコットランドに誘致することは現実的ではない。知的集約型産業によって創出できる雇用数は製造業の比ではなく、また波及効果の速度も遅い。そこで新たに打ち出された次の戦略"Global
Connection Strategy"では、今後スコットランドは単なる産業ビジネスの地としてではなく、人々が暮らしたくなる地としても魅力的でなくてはならないとうたっている。スコットランドのセールスマンとしての私達の役割はもはや産業だけではなく、文化や教育、観光などもバスケットにいれて売り歩かなくてはならないのである。
スコットランド国際開発庁と日本
さて、私達は単なる英国の一地方であるスコットランド政府の出先である。吹けば飛ぶような存在である。ところが今やちょっとやそっとではお近づきになれない超エリート省庁である経済産業省に御呼ばれをして講演を依頼されるようにまでなった。つい先日は投資誘致策調査委員就任のご依頼まで来てしまった。なぜなら、スコットランドは今や地方経済活性化、地方分権の最も成功した例として日本で認識されており、それこそが日本政府が今やっきとなって行おうとしている政策そのものであるからである。
思い返せば日本がバブル経済を享受していた前後10年間、英国は大不況の嵐に吹かれていた。行き残りを模索して、右往左往し駆けずり回っていたのである。その間に蓄積されてきたノウハウを今日本が必要としている。
人生とはわからないものである。
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